第1287回 わかりゃいい

 平成29年9月28日~

お念仏の世界に出遇って「救われた」という例が紹介されています。

高校生の息子さんが登校を拒否し、荒れて警察のご厄介にもなり、
専門の先生に相談に来られました。

指導者の先生は「とても教育者のご両親にお教えする力などありませんが、
ただ、人間とは、唯一自覚の出来る存在であり、見えるものの背後に
どれだけ見えないもののお蔭があるか・・・ これを教え、伝えるのが 
教育の原点だと思い、私は実行しているだけです 」 こう前置きしてから、
     祖父母は健在なのか、お仏壇はあるか、お参りしているか尋ねられました。


すでに、年老いた両親は他界し、お仏壇はあるものの仕事が忙しく ほとんど
参つていないと答えました。子どもとは直接関係無い予想外の質問を受け、
戸惑い、しばらく沈黙が続き、考えました。
大学教育の仕送りに、苦労した親たちのことを思い出し、また奥さんも。
いじめられた姑には どうしても手を合わせる気にはなれないそんな
気持ちに気づきました。


「では、ひょっとして、それが原因では ?」
「いや、お仏壇に参らぬから、それが崇っているという話ではありません。
 しかし、育てる側の人間として一番大切なものを持っていなければ、
 子どもには 伝わらない、成長しません。

 今、自分が生きてあることの背後に どれだけの父母の想い、苦労、支えがあったのか
 これに気づいた若者は、自らのいのちをいやしめるような行動はしません」
指導者の先生の信念を聞き、ご両親は帰って行きました。


 数日後、奥さんから電話がかかり、息子が登校しだしたというのです。
「 あの日帰ってから、主人と二人でお仏壇にお灯明をあげ、泣いて両親に
お詫びしました。その足で 二階へ『 また説教か。うるさい、出て行け 』と
息子は大声でどなります。
『 いや、今日はちょっとちがう 』と、どうにか部屋の中に入れてもらうと、
主人は 息子の前に べったり土下座して、『 このような 至らぬ親でスマン。
自分がお育ていただいた、両親に感謝することも忘れていたこの恩知らずの
親が、あんたを育ててきたなんて。すまなかった、許しておくれ ! 』と、

涙ながらに謝ります。お母さんも泣いて詫びたといいます。

息子は 呆然と突っ立っていましたが、やがてずるずると膝を折って。
一言だけ、《わかりやいい》」 「何だ、親に向かって その言葉は!」と、
以前なら 逆上したであろう父親も、息子から出たその言葉は、亡き両親が
自分たちを、許すといってくれた声に聞こえたといいます。

 指導者の先生は、この実例を紹介して
「やらねばならないことを忘れ、やらなくてもよいことに一所懸命に
 なっているところに(現代の)大きな闇があるのです」と。

                 (藤枝宏寿『ぐんもうのめざめ』一部加筆)

 如来真実の呼びかけが、両親に届いた時、はじめて「 私は間違っていた 」
「 本当の自分が見えていなかった 」と気づき、頭を下げずにはおれなかった。 
それが夫妻して 共に息子の前に 土下座をして頭を下げたということです。

それが「 南無する 」ということです。そこにだけ「 真実のいのちの世界 」、
「 共に生きる世界 」が開かれてくるのです。


          


           私も一言(伝言板)