第1391回 もうあう

令和元年 9月26日~

 如来の本願力に会うということは、南無阿弥陀仏の名号に会うということです。
しかし、名号に会うということは、私がどんなに自分で会おうと思っても
会えることではありません。
なぜなら、私と阿弥陀さまとが約束しておいて会うということではないからです.


たとえば今日、午後三時に京都駅で会いましょうというふうに二人の人が約束を
しておいて会う、そういう会い方は本願力に会うときの会い方ではないわけです。
それは会おうという意志のある人たちの会い方だからであります。

 ところが本願力に会うということは、私が会おうと思わなかったのに、
またま会ったという遭遇の不思議です。
自分の意志や計画によっては決して起こらない、この遭遇の不思議のことを
親鸞聖人は「もうあう」とおっしゃっています。

これは、思いもかけなかったのに不思議にも会えたということです。
けれども、それは私たちの方からのことでありまして、阿弥陀さまの方からは
決してそうではないわけです。
阿弥陀さまの方は、私を何とかしてつかまえようと、最初から思い詰めに思って
いてくださったのです。

だから如来の側から言うと、決してたまたまというようなことではありません。
うではなく、初めからそればかりを思っておられたということです。
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば」と、
『歎異抄』第九条にありますが、「かねて」とは「もとより」ということと同じです。

世界の初めから、一切のものの以前、根源からということです。
私の生まれる前から私を救おうと思い詰めに思っていてくださった本願力、
私を呼びつづけていてくださった名号に今はじめて会うことができたわけです。

しかし、それは私の方からはたまたまです。

なぜ会ったか私の方からはわからないからであります。

 妙好人の浅原才市はこういうことを言っています。
どう考えてみても自分に俯に落ちないことが一つだけある。
何が俯に落ちないかと言ったら、お念仏に会ったことがどうしても俯に
落ちないと言うのです。

本願力に会えたことの不思議の生き生きとした感覚が、浅原才市にはあったのです。
会えそうもないこの私が、どういうわけだか南無阿弥陀仏を聞いて、
南無阿弥陀仏をとなえるようになった、これはどう考えても理由がわからない。
私は名号に当ててもらったのだ、と才市は言っています。

阿弥陀さまの方が私の方に来て、私に衝突したように、阿弥陀さまに当てて
もらったと言うのです。
こちらから阿弥陀さまに会いにいったのではなくて、向こうからやってきて、
に当ててもらったと言っています。

このように名号に当たったということが助かったということです。
本願力に会ったら、この人生にもう思い残すことは何もない。
私か思っている人生はどれだけ不備だらけであっても、それで完結するのです。


   浄土の哲学 高僧和讚を読む 上  大峯顯著 p163


          


           私も一言(伝言板)