第1628回 仏さまは 忘れずに

 令和6年 4月11日~

 こんな話を聞きました。
浄土真宗には 有り難い学者さんが沢山いらっしゃいますが、
昭和の初期に 広島に是山恵覚 (これやま えかく) という
和上 (わじょう) さまがおられました。

 たくさんの書物を残されており、また、たくさんのお弟子さんを
お育てになった有り難い方です。

 しかし、晩年には残念ながら認知症になられ、毎朝お勤めして
おられた正信偈でさえも、最初の「帰命無量寿如来……」は
出てくるものの、次の二句目が、どうしても出てこないことも
ありました。

一緒にお勤めをしておられた坊守さんは、
「昔は、難しいことばでも、みんな暗記し、すらすらと書かれて
いたのに、いまでは、お正信偈も出てこなくなって……」と、
悲しそうにつぶやかれました。

 それを聞いた和上さまは、
「私が忘れても、仏さまが忘れてくださらんけえ、大丈夫じゃのう」

坊守さまに向かって、「私はあんたの顔も忘れていくじゃろうし、
この口から、なまんだぶつのお念仏も、出てこなくなってしまうかもしれん。
それでも、大丈夫。大丈夫。


私は何もかも忘れても、私を忘れてくださらん仏さまが、いまここに
いらっしゃるじゃないか。なまんだぶつの仏さまが、いまここに
おられるから、何の心配もいらん、私のお浄土参りに、何の問題もない」と。


 いのちの長い短い、死に方の良し悪しも一切問題ない、
あなたの生き方に、何の要求もされない。あなたの身の振る舞いに、
何の注文もつけない。今後あなたがどのような生き方になっても、
どのようないのちの終わり方になっても、決して見捨てたりはしない。

 いまこの私のいのちと、ご一緒に、歩みを運んでくださるお方が
阿弥陀さまという仏さま。何があっても、お浄土に一歩一歩、
一緒に足をお運びくださる、仏さまです。

苦難の多い人生ですが、南無阿弥陀仏の仏さまとご一緒に、
生き抜いていける道が、ちゃんと整えてあると味あわさせていただきます。

          


           私も一言(伝言板)