第1658回 私は 私でよかった

 令和6年 11月7日~

 こんな話を読みました。お医者さんでお念仏の人、
田畑正久先生の本で「生きる ことを 教える仏教」

その中の「私は 私でよかった」という内容です。

 日常生活で、われわれは 事に当たって 何か判断する時、
私にとって 善か 悪か、損か 得か、勝ちか 負けかを 考えます。 
われわれが善いもの、得になるもの、勝ちになるものを

集めようとするのは、そうすることで  自分の人生を
充実したものにしたい という心が 働いている
からだと思われます。

 世間的には 自分を 充実させるもの として、良好な人間関係、
経済的安定、社会的評価や 健康等を 考えます。 
しかし、それらは 相対的なものですから、どこまで

手にすれば  満足することに なるか わかりません。

人間を 一番 困らせるのが「 死 」です。  
哲学者のフィヒテは「 死というものは、どこかに

ある のではなくて、真に 生きることの できない人に
対して のみある 」と言われています。

 フィヒテの言う「 真に 生きる 」とは、「 足るを知って 生きる 」
「 私は 私で よかった 」「 完全燃焼 できた 」

「 生きてきて よかった 」と いうような 生き方だと 思われます。

 江戸時代の思想家で、医師でもあった 三浦梅園の書に、
「 人生 恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華 自ずから 紅なり 」
( 他人が 自分のことを 評価してくれなくても 嘆くことはない。

  深山幽谷に咲く花は、誰かに 見られなくても 精一杯
  見事な花を 咲かせている )

 最後の「 華 自ずから 紅なり 」は、私は  私でよかったという 
「 真に  生きる 」ことを 表現した言葉と 思われます。

「 真に 生きる 」ことのできない状態を、仏教では 餓鬼、
畜生と 表現することがあります。

 餓鬼とは、いつも 何かを 取り込まないと 満足できず、
常に 取り込もう、取り込もう としている 状態を 示します。
畜生は 家で飼っている ペットのようなもので、

飼い主の顔色を うかがいながら 生きて、主体性が 無い状態です。
自らに 由ってない、自由でない 生き方です。


「 真に 生きる 」とは 足を 知って、主体的に 自由自在に
生きることを示しています。  
自分に 与えられた 場を、「 これが 私の現実 」と

受け取れる人は、その場で 精いっぱい 生き切ることが
出来るでしょう。

あとは 安心して「 仏へ お任せ 」になるのです。
    田畑正久著 「 生きる ことを 教える仏教 」本願寺出版社刊


          


           私も一言(伝言板)