第1516回 信心をいただくということ ~御文章の内容は ③ ~

 令和4年 2月17日~

 御文章ほど「信心をとれ」ということを、いわれているものは
他の聖教には余りありません。
信心をとるとか、いただく、もらう、獲得するということが
一般に多く用いられていますが、いかなることでしょうか。

二の二の御文章によると。
「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして
  無間地獄に堕在すべきものなり」とあります。
しかれば、信心をいただくということは、どういうことでしょうか。

先づ信心をいただくという場合、他力の信心には私の側に
ものがらが出来るとアウトになります。
というのは、宗祖聖人の主著教行信証には、どの巻でもはじめに

出体釈が出ていますが、別序まである最も大切な信巻だけは、
出体釈がかけているのであります。

信巻では、はじめから大信心の十二嘆徳の文しか出ていません。
これによると、他力の信心は私の側にものがらが別に出来ると、
自力の信心となり、往生の因とはならないこととなります。
もし他力の信心のものがらを求めると、前巻の大行であり、
名号六字の法であります。

他力の行と信の関係は、あたかも水と波の如く、波そのものは
水のほかにものがらはあり得ない、水のままが動いている相が
波であります。

信心とは名号がこの私の上にはたらいでいる相であり、
この私を場所として活動している法であります。
それ故、私の側からはプラスするものも、マイナスするものもなく、
ただ与えられたそのままといわれるのであります。

しかれば、この信心をいただくということは、いかなることでしょうか。
このことを最も端的に、誰でもわかる表現をされて述べられているのが
御文章であります。
この場合、多くは「雑行雑修自力の心をすてて一心に弥陀をたのめ」とあります。

自力の心をすてることは、私の側からは不可能であります。
それはあたかも、自らの眼によって眼を見んとするような業と等しいのです。
自力の心のすたることは、一心に弥陀をたのむほかにないのであります。
「一心に弥陀をたのむ」という一心は、ひとすじにという意味であり、
たのむはおまかせすることであります。

それ故、私の側のたすかる、たすがらない心配はすべて、
すっかり弥陀の仕事であり、弥陀のはからいであるから、
私の仕事は、すべておかざるを得ないのであります。
ここでは はたらいでいるものは、弥陀の仕事しか残りません。

それ故、たすかる証拠は、六字の他にはありません。
自らの側に証拠を求めるところに、間違が生ずるのであります。

かつて讃岐の庄松同行はオカミソリの時、法主の袖を引っぱり、
「アニキ覚悟はよいか」といったといわれる。
その時、法主の側から逆に「お前さんの覚悟はどうか」ときかれた時、
「オレのことは知らん、アレに聞け」というこの一言、銘記すべきであります。

          市原栄光堂 宗教CD 「御文章のこころ」より

          


           私も一言(伝言板)