第1071回 宮殿に生れて  〜罪福を信じる〜

 平成25年 8月 1日〜

「無量寿経」 の 「胎化段」 といわれる一段に、

「なほ罪福を信じ、善本を修習(しゅじゅう)して、その国に生まれんと
 願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず
 経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを
  胎生といふ」 少し難しい一段ですので、まずは身近な私の経験から申し上げます。

私の在籍する研究所の若い研究員さんが新婚旅行から帰って、
報告してくれた時のことです。
「お帰りなさい。どこへ行ってきたの?」  「はい、マチュピチュです」
こう言われても、最初は何のことか、よくわかりませんでした。

「マチュピチュ?」 と怪訝な顔をする私の気配を察したのか、
「古代インカ帝国の遺跡です。世界遺産にもなってます」 と説明されて、
やっとわかりました。
写真のアルバムも見せてもらい、「こんないいところなら、私も行ってみたいな」 と
思いました。


 お釈迦さまが浄土のことを、さまざまに目の前にあるようにお説きくださったのも、
「どう説いたら、浄土に往生したいと思ってくれるだろうか」 とのご思案だったのでしょう。
私たちは、結果で示されて初めて納得できるものだからです。

そして同じ浄土でも、「胎生」 と 「化生」 があると説かれるのが 「胎化段」です。
「胎生」 の 「胎」 とは、「胎児」 の 「胎」。
母親のお腹の中にいる胎児は、外の世界が見えません。せっかく浄土に往生しても
阿弥陀如来にまみえることもできず、ご説法を聴くこともできない、それが 「胎生」 です。

 『徒然草』 に 「仁和寺の法師」 という一段があります。
仁和寺の法師が石清水八幡宮に参詣した時、麓の社だけ参拝し、
山上の八幡の本殿があることを知らずに帰ったので、何をしに行ったのか
わからないという物語です。

私たちも、せっかく念仏奉仕団でご本山に参拝しながら、聞法会館の居心地が
いいものだから、聞法会館でずっと過ごし、お晨朝にも参らず、お聴聞もせずに
帰ってきたとしたら、何のために念仏奉仕団に参加したのかわからないですね。
「胎生」 とは、そういうあり方です。

 このように結果で示されると、「どうして胎生という結果になるのか」 が
問題になります。
その原因は、「罪福を信じる」 からだと説かれます。

「こんな罪深い身では救われない」 と自分で決めるのが、「罪を信じる心」。

「これだけ善いことをし、これだけ聴聞を重ねたのだから大丈夫」 と自分で決めるのが
「福を信じる心」。

これらは、自分で勝手に決め込むことにおいて、本願力を軽視し疑っています。
本願他力にまかせずに、自力が先に立つから 「胎生」 という結果になると
誡められるのが、「胎化段」 の一段です。
                       大乗 8月号 金言礼讃 満井秀城師

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、88日に新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)