第1591回 しあわせ 幸せ 仕合わせ

 令和 5年 7月27日~

 私たちは「しあわせ」を 追い求めて、生きています。
その「しあわせ」を「幸せ」と書くことが多いものですが、
ひと昔前までの辞典は「仕合わせ」と 表記されていました。                
「幸せ」の「幸」とは「山の幸・海の幸」の 恵みを意味します。
人間は  その山や  海の恵みを  有り難い 恵みと受け取ることが出来ず、 
思いのままに乱獲し、乱開発してきました。


 「幸 多かれと・・ 」の「幸」も「恵み」の意味でしたが、
今では、人間の「望み(欲望)」の延長線上にあるものと受けとられています。 
「幸」には「恵み」以外に、「こいねがふ」という  欲望の意味や 
「むさぼる」をも 意味します。 
「むさぼる」とは、三毒の煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、
「足ることを 知らない」ということです。  
そんな私たちが「しあわせ」を  望んだとしても、むさぼり続けるだけで、 
いつも満たされず、不平・不満ばかりを いいながら生きています。
自分の思い通りにならず「愚癡(ぐち)」を こぼし、
「憤り( 瞋恚・しんに)」を  感じるしかありません。  
そんな私たちに、本当の「しあわせ」は あるのでしょうか。


 一方、「仕え合う」と書いて「しあわせ」は、お互いが  相手や
周りのために  仕え合うことを「仕合せ」と言うのです。
欲しい 物が  手に入り、自分の思い通りになることに満足するのでなく、
信頼している人に 喜んでもらえることを「仕合せ」だというのです。
作家の司馬遼太郎氏によれば、「仕合せ」の「仕」は「ある人に
つかえること」だそうです。


 自らの生命をかけて  仕えるべきものに出会うことです。
生きている中で、辛いこと・苦しいことなどが あったとしても、
自分の「めぐりあわせ」言いかえれば  不思議な「出会い」が 
ぴったり合う因縁を「仕合せ」というのです。


 私たちは人間として  この世に命を恵まれました。
しかし、生まれてきたことを当然のこととして、また、恵みを恵みとして
受けとめていない 私がいます。 
そうして、命の営みの中で、多くの恵みや 出合いがあるのに

まったく気づかず、生かされている「しあわせ」も 生きている慶びも
味わえないままでいます。

 親鸞聖人は、法然聖人と出会えたこと、そして阿弥陀如来のご本願に
出合えたことを「仕合せ」だったと慶ばれています。
親鸞聖人の生涯は、決して幸せであったとは言えないものです。 
幼い頃 両親を亡くされ、念仏禁止令で遠く越後に流罪になり、

晩年は、ご長男の善鸞さまを 義絶せねばならないなど、苦難の連続でした。
しかし、親鸞聖人は その不幸を 嘆くのではなく、お念仏とともに

慶びをもって力強く生き抜かれました。 

 それは 法然聖人と巡り会えたこと、そして何と言って
阿弥陀仏のご本願に遇うことができ、人間として生まれてきた

不思議と、慶びを味わうことが出来て、とても仕合せだったのだと思います。
それが、教行信証の総序に「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、
真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」
という言葉として 表れているのだろうと味わえます。

 お念仏の教えに遇うことが出来れば、当たり前なこと、平凡なものが、
不思議で有り難く、しあわせに感じられるようになることを、

教えていただいています。

          


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