第1325回 信心の本質

平成30年 6月21日~

信じるということは、何かが見えてくる、「目覚めてくる」ということ。
目覚める、何かが見えて来るということは、人格的には、何かが、
どっかで変わっていくことだと思う。
変わるというのは、皮が取れて、そうして何か内なるものが育ってくる。
こう膨らんで成長していくということだと思います。

  信じるということは見えてくる、わかってくることである。
その解ってくる、見えてくるというのは、何らかの意味で人間変革が
生まれてくることで、皮を脱ぎ、そして成長していくという。

そういう一連の私の生きざまに、影響をもたらしてくるものである。
すなわち、人格の根本を育てていくというものが信心の本質だと思うんですね。

その信心という時に、とかく、神様、或いは仏様と私というふうに、
二元的に捉え勝ちですが、仏というものは、私を離れて、私の外に

二元的に捉えられるべきものではありません。

一般の古い宗教理解、特に仏教理解の中で、伝統的な教義理解においては、
信じるというのは、対象的に捉えていました。
信じる主体の、私がここに居て、信じられる対象の仏がどこか外なる
ところに存在して、そういう対象的なもの、仏と呼ばれるものを、
私が信じるという、いわゆる二元論的に、そして対象的に捉えると
いう信じ方を語りますが、そのような信心は、まったく仏教の本質を
外れていると、私は思います。

有名な西田幾多郎博士が亡くなられる少し前にお書きになった論文に、
 もし対象的に仏を見るというごときならば仏法は魔法である

        (西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」から)

という、言葉をお書きになっておりますが、まさにそうだと思います。
(まこと)の信心というのは、限りなく、遠い存在であり、決して
私にある筈のない仏に、いまここで私において、私に即して出合う、
発見すること。そういう出会い、「目覚め」が、そういう私の体験が
信心だと思いますね。

経典の原語、サンスクリット語まで、ちゃんと帰えしてみますと、
信仰ではなくて、信心というべきでありましてね、仏教では、信心(しんじん)
(じん)、「こころ」というのは、人間の一番根元的な生命を表したり、

或いはまた、人間として最も根元的な人格主体を表す言葉が心(しん)
「こころ」という字です。


またこの心という字は草冠を書きますと、柿の芯とか、リンゴの芯という
字になります。
この芯とは、その中に柿やリンゴそのものの生命が凝縮されているわけで、
やはり人間、我々一人一人も、そういうものを持っていて、それを心、
「こころ」と言っているわけですね。


仏教では、心とはそういう根元的な生命とも捉えます。
そういう心、生命に基づいて「目覚め」、そしてまたそういう生命そのものが
脱皮し、成長していくという。それを仏を信じるというんですね。

            こころの時代 信楽 峻麿 (しがらき たかまろ)

          


           私も一言(伝言板)