第989回 泥の中の白蓮華 〜智慧と慈悲の徳を〜
 
 
平成24年 1月 5日〜

「イケテル」とか「おっしゃれー」という言葉を聞かれたことがありますか?

まあひと昔前の「ナウい」と いったような意味なのでしょうが、容姿や服装の「お洒落」の
センスがよいといったことから派生して、生き方の「かっこよさ」みたいなことを誉める時に
もつかわれるようです。

時代を問わず、若者が「かっこよさ」に憧れるのは、無理からぬことですが、
ある程度の年齢になると、「かっこよさ」よりも「尊さ」にひかれるように
なるのではないでしょうか。

 私たちは、どんなところにその人の「尊さ」を感じるのでしょうか?

一つのことをやり続ける「努力」とか自分を犠牲にしてでも他の人につくす「奉仕」などを
挙げることができるでしょう。

けれども、その人の態度にある種の謙虚さがなければ、どんなに立派な行動であっても、
鼻に付く嫌味が先立って、「尊さ」を感じないということにもなりかねません。

ここでは、お釈迦さまが他力の信を得た人の「尊さ」を

「すぐれた智慧を得たものであるとたたえ、汚れのない白い蓮の花のような人とおほめに」
 なりますが、それには理由があります。

蓮の花はドロドロの泥沼に生息するにもかかわらず、見事に清らかな花を咲かせます。
そこで本来は、世間の泥沼の中にありながら泥に染まらず、むしろ泥沼を美しく浄化して
いくという仏さまや菩薩様の徳を蓮の花に譬えていたのです。

ところがお釈迦さまは「観経」で、汚い煩悩の泥の中にいる凡夫の念仏者を
蓮の花の中でも最高級の白い蓮の花として讃えられているのです。
それは、仏さまの中で最も尊い阿弥陀さまの智慧と慈悲の徳を煩悩の中に
いただいていることを 白い蓮の花に譬えておられるのです。

「妙好人」と讃えられる他力の信心を得られた方々は、どこか恥ずかしそうで申し訳
なさそうにしておられるところがあったと聞いたことがあります。

妙好人は、自らに届いた阿弥陀さまのはたらきを喜ばれたに違いないのですが、
その仏さまの真実はもともと自らがもっていたものではないことを味わっておられ、
もともともっている自らの泥沼から目を背けることはできなかったのです。

だから、仏さまのはたらきを喜べば喜ぶほど、仏さまに対して申し訳ない気持ちと 
自らの泥沼を恥ずかしいと思う気持ちが隠しきれずに表にあらわれていたのでは
ないでしょうか。

その態度が、人々に「尊さ」を感じさせることになったように思います。

  ひらがな正信偈 森田真円師著  本願寺出版社発行 より

         


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