第1413回 地獄はあるのか

令和  2年 2月27日〜

 ある高僧に「地獄は本当にあるのですか」と尋ねますと、

「ないと思っているものにはあり、あると思っているものにはない」と
答えられたそうです。

その言葉の意味がわからず、かさねて尋ねると、高僧は  
「たとえていえば、刑務所なんかあるもんか、と法律を無視して
生きるものがいるので、そういうもののために刑務所が
つくられているのである。

みんなが気持よく日暮らしするためには、みんなのきまりである
法律は守らなければ、と法律に順じて生きている人には刑務所は
必要ない。
だから、その人には刑務所はないといってもいいのである。


それと同じことで、仏法なんか関係ないという生き方が
地獄をつくるのであるから、そういう人には地獄はある。
しかし地獄という世界があるそうだから、人間に生まれた以上は、
仏法に随順して本当に人間らしく生きたいと思って
日を送っている人には 地獄はないのである。」という
意味のことを話されたそうです。


 でも「そうはいっても、地獄の話を聞くと人間を串刺しにして
火で焼くというが、そんなことは
 信じられない」という言葉が
返ってきそうですが、考えてみて下さい。

私たちの台所では、毎日 地獄以上のことが行なわれている
のではないでしょうか。

人間に食べられる魚や貝はきっと、私たちの台所を地獄だと
思っているにちがいありません。

串刺しにされ、姿焼だと食べられる魚、生きたままで炊かれたり、
焼かれたりする貝、特に 生きてピクピクするのを喜んで、
“やはり生きのいいのに限る”などと、食べる人間は、魚や貝か
ら見れば 鬼以上ではないでしょうか。

そんなことをしている私たちが、人間を串刺しにして焼くような
地獄がないといえるでしょうか。
いつか、逆の立場になり、焼かれたり、切りきざまれて食べられる
ことになるかも知れません。


そんなことは考えたくありませんが、日々やっている私たちが
「ない」というのは、あまりにも身勝手な言い分ではないでしょうか。

 親鸞聖人は「いづれの行も及び難き身なれぱとても地獄は
  定すみかぞかし」(歎異鈔)といわれています。

仏になるような行ないや善が、何もできない自分であった。

悪いことや、間違いをおかした時には仕方なかった、
と弁解したり、人間はみな、こんなもんだとごまかす自分。
反対に、少し善いことをすればうぬぼれ、威張り、他人を
責める自分。

そんな自己のあり方、生き方が知らされたとき、自分の行き先は
地獄以外にない、と悲嘆されたのが、

親鸞聖人の先のお言葉です。

 こういう言葉に出合うとき、「地獄なんかあるもんか、
あったら見せてほしい」と、平気でいう私たちは、いかに
軽薄であり、自己を見失っているかが、イヤでも知らされる
のであります。


 如来が、まず第一の願で地獄を問題にされるのは、
「地獄なんかあるもんか」と、自己を見失って、平気で
生きている私たちが、危うくて、心配で、放っておくことが
できなかったからにちがいありません。

私は、自己と自己の生き方を如来のみ教えによつて照らされ
るとき、どうしてもそのようにしか受け取れないのです。


 阿弥陀如来の、私の底の底まで見抜いた上での用意周到なる
お手まわしに、ただ頭が下ります。

        人となれ仏となれ 藤田徹文師著 永田文昌堂刊

          


           私も一言(伝言板)