第1514回 平生業成 ~御文章の内容は ① ~

 令和4年 2月3日~

 ご法話のCDを購入しました。その中に、次のような

解説文が入っていました。稲城選恵先生の文章です。


 蓮如上人の書きのこされた御文章は現在 帖内、帖外を合すと、
約二百六十通以上あります。

これらの数多くの御文章の一貫していわれていることを
一言にして表すと、平生業成の四つの漢字に
おさめることができます。

 蓮如上人は この平生業成の義を、一文不知の尼女房にも
通ずるように かみくだいたのが御文章であります。
現代わが国の仏教の中で最も大きな教団になったのも
この平生業成の義が徹底したからであります。

平生業成は臨終業成に対する言葉であり、当時最も
盛んであった浄土宗鎮西義の臨終業成に対する
言葉であります。
臨終業成は臨終の時、聖聚(仏さまや菩薩衆)の
お迎えによって、はじめて浄土に往生することが
決定するのです。

これに対し、浄土真宗では親鸞聖人も「未灯鈔」の
はじめにあるように、「来迎は諸行往生にあり、
自力の行者なるがゆえに、臨終といふことは
諸行往生のひとにいふべし。・・・

真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に往す。
このゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まるなり・・・。」
とあり、臨終には全く用事がないこととなります。

しかし、一応平生とは臨終に対する言葉でありますが、
厳密な意味においては臨終も平生も包んでいるので、
いつでもということであります。
いつでもということの具体的なものは今ということであり、
今はここという空間と自己同一の場にあります。

更に今こことはこの私の存在する場所であります。
私のたすかるか否かという問題の決定する場は
私の存在する今ここの外にはあり得ないのであります。
というのは自らの側が求めるに先行して既に
救いの法が与えられているからであります。

それ故、お聞かせにあづかった今ここのほかに
救いの法はどこにもあり得ないのであります。
御文章にしばしば「一念発起平生業成」とか
「一念発起入正定之聚」といわれるのは正しく、
お聞かせにあづかった今ここが私のたすかる場所で
あることをいうのであります。

ここでは救われようと救われまいと自らの仕事でなく、
すべて仏の側のうけもちであります。
それ故「仏のかたより」とか、「如来わが往生を
さだめたまいし」と、しばしば述べられているのであります。

   市原栄光堂製作宗教CD 「御文章のこころ」より

          


           私も一言(伝言板)