第1370回 逃げている私を

令和 元年 5月2日~

  摂取不捨   『教行信証』

常にはたらきの中

「阿弥陀さまは、すべての人を必ず救うと願い、はたらき続けてくださっています」
この言葉がスッと受け容れられたら、それだけでいいのですが、それが難しい人は、
まず「真実には、真実でないものを真実に導くはたらきがある」と

受け取ってみてください。私たちは、常にそのような真実のはたらきの中にいるのです。
にもかかわらず、真実から目を背け、真実に反する生き方をしているのです。


 親鸞聖人の書かれた「浄土和讃」の「弥陀経讃」に、

 十方微塵世界の  念仏の衆生をみそなはし

  摂取してすてざれば  阿弥陀となづけたてまつる

という和讃があります。
「十方の数限りない世界にいる、お念仏する人々をご覧になって、
摂収して捨てないので、阿弥陀とお呼び申し上げる」という意味です。


 自分こそ正しい?

 この和讃を紹介した時、「それでは、お念仏していない人は救われないのですか?」
という質問を受けたことがあります。


 親鸞聖人は、「摂取」という言葉の左側に註釈を加えておられます(左訓)。
それによると「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを
追はへとるなり、摂はをさめとる、取は迎へとる」とあります。

「ものの逃ぐるを追はへとるなり」とは、「逃げている人を追いかけて救いとる」
という意味で、「逃げている」とは、仏さまに背を向け、仏さまの教えに
反する生き方をしている人のことです。


自分こそ正しいと思い込み、自分を中心に、「いい・悪い」「好き・嫌い」と
物事を勝手に判断し、虚構の世界を創り上げ、その中で迷い傷つけ合っている人の
ことなのです。
それはまさに、この私たちのことなのです。


 阿弥陀さまのはたらきは、仏さまに近づく人だけに向けられているのではありません。
むしろ仏さまに背をむけ、自分勝手に生きている私たちにこそ、向けられるのです。


 「摂収不捨-仏さまは、仏さまから逃げている私を、必ず救い取ってくださいます」

 この言葉を頂くと、本当に申し訳なく、頭が下がります。
阿弥陀さまの心を忘れず、お念仏の人生を歩みたいものです。

          いのちの栞 毎日を仏法という鏡に 本願寺出版社 小池秀章師より


          


           私も一言(伝言板)