第885回 科学だけでは 〜答えてはくれない〜

 平成22年 1月 7日〜

 妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
科学と宗教のことについて こんな文章を読みました。


人間は 「なぜ」と問う存在です。 「なぜ」 の答えを探し続ける存在です。
「なぜ」 の答えが分からないと 心が落ち着けることができない存在です。
それは出来事にある意味を 見出さないと済ますことができない、
ということです。

 近代において科学技術が これほどまでに大きな意味をあたえられたのは、
人間の欲望を満足させることが出来たからです。
ということは、欲望の満足には
 単純に「意味」が見出されるということです。

今や、わたしたちは、科学技術の恩恵なしには暮らせないようになりました。


しかし、科学技術の恩恵だけでは、わたしたちの人生は完結できないのです。

 科学技術は、繰り返される事実を根拠に、もっとも確実な出来事の法則性を
明らかにし、意味づけてくれましたが、たった一度しか起こらない出来事に
ついては 何も明らかにしてくれていないのです。

早い話が、「わたし」という天にも地にも後にも先にも一人しかいない存在に
ついて「このわたしがこの日本という国のただ今の時代に生を享けたということ
には どんな意味があるのか」とみずからに問う人に科学は何の答えも与えること
ができないのです。

 さらに、人間にとってもっとも深刻な悩みは、自分だけに降りかかる悲劇的な
出来事です。このような出来事に遭遇して人間は「なぜだ!」と叫ばずにはいられません。

しかし、科学は、何も答えません。せいぜい「偶然」あるいは「運命」としか
言えないのです。

 このことに答え得るものは、人知ではなく、人知を超えた視座からの意味づけしか
ない。それが宗教というものです。宗教なしには、このような人生に
起こるたった一回の出来事に意味を与えることはできないのです。

 浄土真宗では、「弥陀の御もよほし」(歎異抄)とか「弥陀の御はからひ」あるいは
「御催促」という言葉に示されるように、わたし一人に降りかかってきた出来事を
阿弥陀さまからの ご縁、はたらきかけと意味付けてきました。


どのような出来事もそれを通して人知を超えた世界、仏さまのおさとりの
世界へ目覚めるご縁が与えられてこそ、無駄ではなかったということになります。

 私たちの人生は、目に見えないはたらきが加わって人生を彩っているということ。

また、目に見えないものこそ私たちにとって大切なものであることを、仏さまという
目に見えないものを拝むことを通して教えています。「いのち」も「こころ」も「きずな」
も「信用」も目に見えませんが、これらを失えば、生きる意味も失われるのです。

だから、これらもひとつ一つが大きな意味をもっているということが、仏さまを拝んでい
くとき、自然と実感されてきます。それは仏さまのお智慧をいただいてそのことに気づか
されていくのです。・・・・・・・

文章の前半を 省略して ご紹介しましたが、

( 宗報 平成211112月合併号 親鸞聖人 750回大遠忌法要に向けて 40

科学は宗教の代わりにはならない」    田中教照師 きょうしょう)


         


           私も一言(伝言板)