第1423回 ほんものの念仏

 令和2年 5月7日〜

 真の念仏とは、浄土真宗でいちばん
大切にいただいている『無量寿経』に
説かれているもので、それは

私から仏への方向において成り立つ
念仏であるとともに、また仏から私への
方向をもって成り立つところの念仏を
いいます。


 もしも念仏が、私から仏への方向のみに
とどまっていたならば、それは 決して
ほんものの念仏にはなりません。


 そういう私から仏への方向における、
ひたすらな念仏が、またそのまま同時に、
逆に仏から私への方向をもった念仏として、
私の日々の生きざまが、その仏の心、
浄土の心によって根源的に問われてくる
ような念仏になった時、はじめて

ほんものの念仏になるのです。

 私が「なもあみだぶつ」とお念仏
しながら、その念仏をとおして私自身の
ありのままの姿が、その煩悩具足の
胸の中、生死無常の人の世が、いよいよ

知られて、私の足もとがつきくずされ、
底がぬけて、何もかもからっぽになって

ゆくならば、そこに成り立つ念仏こそ、
真の念仏、ほんものの念仏というのです。

 それは「私が仏を念じる」私の念仏で
あるとともに「仏が私を念じている」

仏の念仏ともいいうる念仏であります。

 しかし、このようなほんものの念仏に
おいては、その念仏をとおして、私自身の

生きざまが根源的に問われ、その足もとが
きびしくつきくずされてゆきますが、

またそれと同時に、私の心の中の
もっとも深いところに、まったく
新しい生命が誕生してきます。


 人生における畢竟のまこと、真実と
いわれるべき生命の誕生です。

ほんものの念仏とは、つねに
こういう真実、まことの体験をふくんで
成り立つものであります。


 そういう意味においては、
「なもあみだぶつ」と称える私の念仏は、
私が仏に向かい、仏を呼ぶ声でありますが、

それがそっくりそのまま、向こうから、
真実の世界から、とどいた
「なもあみだぶつ」でもあるわけです。


 私が念じている念仏が、そのまま仏に
念じられている念仏、私が称えている
念仏が、そのまま仏に称えられている

念仏、そういう深い味識の中に生まれて
くるような念仏を、ほんもの念仏といいます。


  親鸞聖人が「本願の念仏」とか、
「他力の念仏」と明かされたものは、
すべてこのような念仏をいうわけです。


 そしてまた親鸞聖人は、この念仏を
「智慧の念仏」ともいわれています。

 このようなほんものの念仏に生きるものには、
いままでとはちがって、新しい知見の
世界がひらけ、人生の旅路に明かるい

光がさしてくる、ということであります。

 浄土真宗の教えを学び、つねに
念仏をもうして生きるものには、たとえ
どれほどきびしい人生であろうとも、
やがてきっと平坦な道がひらけてきます。


 またそのだれもが、かならず人間の
しあわせをしみじみと思うようになります。


 親鸞聖人は、このようなほんものの
念仏に生きよ、と教えられたのであります。

 信楽峻麿(しがらき たかまろ)著
    真宗入門 百華苑刊


          


           私も一言(伝言板)