第1577回 法事の参拝者は 招待客ではありません

 令和 5年 4月20日~

 仏事のイロハという本の中に「法事の参拝者は 招待客ではありません。」
という文章がありました。
 【法事に参画を】と説かれた所にです。

 法事は、主催者である施主とその家族が中心となって準備をし、
営まれるわけですが、同時に、案内を受けて参拝する人たちも
法事を営む一員であることを心得ていただきたいものです。

 なぜこんなことを言うかといえば、「法事はもっぱら施主が勤め、
我々がそこに招待された者だ」という意識が、参拝者の中にあるように
思えるからです。

 すなわち、施主が招待する側で、参拝者は招待された“ 客 ”である
というふうに対照的に捉えがちなのです。
しかし、法事の趣旨からいうと、それは間違いです。

法事は 故人に縁ある人たちが参集して、僧侶を招き、ともに
仏法を聞き味わうところに意義があります。

ですから、施主も、参拝した人たちも同じ立場にあるわけで、
法事に集まったすべての人々が、法事を営む一員だということです。

 もっとも、具体的に形に表れる準備や進行は、施主やその家族が
行うことになりますので、参拝者は側面から協力することになります。

たとえば、親の年忌法要であれば、子である施主の兄弟で費用を
分担してもよいでしょうし、参拝者全員に配る「お供養」の品を
負担しあったりしてもよいでしょう。 ()


 参拝者が、当日お備えするものとしては、一般的に金封の「御仏前」や、
お菓子、果物といった供物類があります。
「御仏前」が施主へのお礼でないことはいうまでもありません。
報謝の心から仏さまにお供えするものであり、供物類も同様です。
いずれにしても、参拝者も積極的に法事に参画してください。

 【法事の意味】の項目では 

 法事は、仏事ともいいます。意味するところは、縁ある人々が集まって
ともに仏さまを敬い、その教えを聞き、僧侶を迎えて、仏道を
実践していく行事のことです。

浄土真宗でいえば、阿弥陀仏を敬い讃えて、その本願のはたらきである
お念仏のいわれを聞き、お念仏の人生を歩むことを確認し合う集い、
といえましょうか。 (略)


 ところで、この法事、亡き人をご縁に務めることから、「亡き人のために」
行うものと思われがちです。
いわゆる「追善供養」です。すなわち、亡き人のために私たちが法事を行って
善を積み、その功績を亡き人に振り向けて、少しでも良い世界に生まれて
もらおうという考え方です。

 しかし、浄土真宗の味わいでは、亡き人は阿弥陀仏の救いによって
すでに 浄土に生まれ、仏さまになっておられます。
ということは、こちらから善を振り向ける必要はないのです。
法事はあくまで、参拝者一人ひとりの「私のために」催される
仏教行事なのです。

 仏さまとなられた亡き人を偲ぶ時、亡き人は私たちに
「いつでもどこでも、どんなことがあっても、けっして
見放されない阿弥陀さまを依りどころにして、たくましく人生を
歩んでくれ、そして、私のいる浄土に生まれて、再び会おうよ」と
願われていることでしょう。
その願いを聞くのが年忌法要の大切な点です。・・・

  とあります。


          


           私も一言(伝言板)