第1302回 おつとめする意味

 平成30年 1月11日〜

 こんな文章に 出あいました。

 おつとめする意味 〜優しい心遣いに応える言葉は? 〜

 お寺の法要やお家の法事などで、「浄土三部経」や「正信念仏褐・和讃」を
拝読していますが、そもそも、「おつとめする」ということは、何をしているのでしょう。
このようにお尋ねすると、「それは〈聖典〉のご文を声に出して読んでいるのです」と
おっしゃるでしょう。

それでは、どのような思いで、私たちは拝読しているでしょう。

 毎日、忙しく生活していますと、「ちょっと一息つきたいな」と思われることも、

しばしばあるでしょう。
こうした時、身近にいらっしゃる方に、「お茶を入れてくれる?」と頼んで、
休憩されることがあると思います。
ところが、こちらの気持ちを察して、相手の方から「どうぞ」といって、
お茶を差し出されたら、思わず「ありがとう」とおっしゃるでしょう。

 どちらも何気ない会話のやりとりですが、頼んでからいただくことと、
その前に差し出されのとでは、大きく意味が違ってきます。
依頼するということは、自分の思いを伝えて、お願いするということですから
声をかけるまでは、気持ちは伝わっていないでしょう。


しかし、相手の方から声をかけられるということは、こちらの思いを
察してくださっているのですから、気持ちが通っているということです。
そうした時には、感謝の気持ちが湧き起こってくるでしょう。

「おつとめする」ということについても、同じように考えることができるのです。
私たちが拝読している「聖典」は、「どうぞ(まかせておいてください)」という

「阿弥陀仏のおこころが綴られてあるもの」です。

ところが、「私か読んでいる」という思いから、「おつとめする」ということは、
「どうぞ」と声をかけていただいているのに、「お茶をいれてくれる?」と
頼んでいるようなものでしょう。

 阿弥陀仏は、煩悩に振り回されて、どうすることもできない私たちを
救い取ろうとして「すでに」はたらきかけていらっしゃいます。
ですから、「勤行(おつとめする)」ということは、いついかなるときも、
私たちのためにはたらきかけてくださっている阿弥陀仏を称え、
そのおこころのうちに救い取られていることに対して、感謝の気持ちから
行うもの、ということでしょう。

  本願寺出版社 なるほど浄土真宗 佐々木義英著より

          


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