第1385回 今すでに聞く

 令和元年 8月15日~

 仏教婦人会の季刊誌 めぐみ の法話に「今すでに聞く」という
本願寺派布教使 奈良教区吉野西組圓光寺住職 和気秀剛さんのお話がありました。

『日常勤行聖典』のはじめに「礼讃文 三帰依文」があります。

 人身受けがたし、今すでに受く。
 仏法聞きがたし、今すでに聞く・・・・

 子どものころ、お仏壇の前に座って思っていました。
「(野菜の)にんじんをうけるのはむずかしいって なに? ? ?

 人としてこの世に生まれてくることはとても難しく、また、仏さまの教えを
聞くことはさらに難しいのである。

しかし、今すでに聞くことができるご縁を頂いている、という意味であると
知るのはずいぶん後のことでした。


 中学生のころ、お仏壇の前に座って思いました。
「仏教はお釈迦さまが始めたはずなのに、何故お仏壇にお釈迦さまはいないの ?」

 お仏壇の中心であるご本尊は阿弥陀如来さまです。
お脇掛けがある場合は、親鸞聖人と蓮如上人(もしくは十字名号と九字名号)
お釈迦さまのお姿はないのです。

不思議に思い親に尋ねると、「とても大切なことだから自分で理由を探しなさい」
と言われました。


 学校で仏教の勉強を始めたころ、面白い表現を聞きました。
「お釈迦さまはお亡くなりになったのではなく、おかくれになられたのです」

私たちは人のいのちが終わると「亡くなった」といいます。

お釈迦さまの場合は「亡くなられた」といわないのです。
仏教徒であるなら「お釈迦さまはおかくれになられた」と表現することを
仏教の先生から教わりました。

 そういえば、「かくれんぼ」をするとき「もういいかい」と探す方が聞くと、
「まあだだよ」と返事があります。

姿は見えないけれど、声は聞こえる。
姿はかくれているけれど、そこにいるのです。

「釈迦さまはおかくれになられた」という言葉は、お姿は見えなくなったけれど、
声のするところにいらっしゃるという受けとめを表しているのです。

お釈迦さまはお経となって今ここにとどいています。

 浄土真宗では、みんなで一緒にお経を読みます。
お経をお釈迦さまの声として私が聞くことを大切にしているからです。
お釈迦さまが直接私に語りかけてくださる大切なお言葉ですから、お経本を
開いたり閉じたりする時は、両手で丁寧に持って頂戴します。


 人身受けがたし、今すでに受く
 仏法聞きがたし、今すでに聞く

 人としてこの世に生を受け、仏法を大切にされているお方々に導かれて、
教えを聞く得がたいご縁を恵まれました。

それは今、すでにとどけられている阿弥陀如来のお救いを
お釈迦さまの教えの言葉を通して聞くためだったのです。

 「なぜなのか、どうしてなのか」は大切な人生の問いです。
仏さまは常に私にともなって、歩むべき道を示してくださいます。
阿弥陀如来の願いに学ぶ人生、まずはお聴聞を大切にいたしましょう。

                季刊誌 めぐみ 246 2019・夏号


          


           私も一言(伝言板)