第1445回 磁石のたとえ

 令和2年 10月 8日〜

 親鸞聖人は「他力」ということを

教行信証の「行文類」で明かにされます。

もし他力が ただ如来さまのはたらき
であるというのならば、如来の徳を
明かされる「真仏土文類」で明かされ
たらよいと思うのですが、それを
浄土の真実の行である念仏を明かす
ところで示されているということは、
念仏となって私の上で躍動している
如来の「利益他功徳力」、すなわち
如来の「利他力」を明らかにした
かったからです。

 「行文類」ではいろいろな讐えで
本願力を表されていますが、その中に
「磁石のたとえ」があります。

子供のころ買ってもらって遊んだ

おもちゃの馬蹄形の磁石で、いろいろな
ものをひっつけたり、砂鉄を集めたり
して楽しんだものです。

 釘というのは自分で動かないものでしょう。
釘が自分で動いたら、ややこしくて
かないません。
あの天井のあたりに打ち込んである釘が、
「俺はこんなところにいるのはいやだ」と
いって、勝手によそへ行ったら、たいへんな
ことです。家がつぶれてしまう。外から
力を加えないかぎり、釘は勝手に動かない。

ところが、この動かないはずの鉄釘が、
自発的に動くときがある。
磁石を近づけると、この釘が磁石の方へ
すっと動いてくる。

鉄釘は、磁石の磁場の中へ入りますと、
動かないはずの釘が動くでしょう。
そのとき、「釘が動いた」といいますね。

あれは、釘が動いたというのか、釘は

磁石によって動かされたというのか。
しかし、磁石によって動かされたに
違いないけれども、釘が動いたことも
事実です。

どちらに動くかというと、確実に磁石の
方向に動いていきます。つまり、運動に
ひとつの方向性があります。
方向性があるということは、釘の中に
一種の秩序が形成されているという
ことになります。

親鸞聖人は、

  なほ磁石のごとし、
    本願の因を吸ふがゆゑに
 (『教行証文類』「行文類」、
    『註釈版聖典』二〇一頁)
といわれています。


「阿弥陀さまの本願力というのは、
磁石のようなものだ。本願の救済の
お目当てである私たち凡夫を吸いつける
はたらきを持っている。それは、
ちょうど磁石が鉄釘を吸いつけるように、
仏さまの本願力は私たちを仏さまの
方向に吸いつけていく」というのです。

あるいは「第十八願に誓われたとおりに

阿弥陀如来さまは、衆生に本願を信じ
念仏するという往生の因を与えて、
阿弥陀仏の方へ吸いつけてくださる。
それはまるで磁石が鉄を吸いつける
ようである」といわれたものとも
うかがわれます。

動かないはずのものが動いているのだから、
これは不思議といわねばなりません。
しかも不思議は、それだけで終わらない
でしょう。磁石にひっついた釘のところへ
別の釘を近づけますと、そこへまた別の
釘がひっつきます。ということは、
じつは磁石にひっついた釘は、磁石に
なっているのです。

これは不思議だ。しかし、これを磁場
からはずしますと、もとの鉄釘に還って
いきます。完全に磁石になりきって
いない証拠です。

 親鸞聖人は、如来に背反したものの
考え方しかできなかった凡夫が、如来の
本願力によって念仏の衆生にならしめ
られると、仏法を真実と受け容れる
者になり、仏法を聞くことを楽しむ
ような者に変わってくることの不思議を、
ちょうど磁石化した鉄釘のような
現象とご覧になったのでしょう。

それは信心の行者が如来のお心に
かなった者に転換しているような
現象だったからです。
ただ、鉄釘は磁場にあるときだけは
磁石になるけれども、永久磁石には
なりきっていない。だから、磁場から
離れますと、ただの鉄釘になって
しまうという現象はよく知っていたと
思います。

 親鸞聖人の信心と念仏 
    梯實圓師 自照社出版


     


           私も一言(伝言板)