第1427回 念仏は 目的
 
 令和 2年 6月4日〜

深川倫雄和上のご法話がありました。


鉢に牡丹を植えると、春になったら
柔らかい芽が出て、真ん丸な牡丹の
つぼみができます。

鉢からありとあらゆる栄養を吸って、
もう咲かんばかり、はち切れんばかりの
つぼみになる。

ところが、ここが寒いのでなかなか
咲かないが、それをビニールハウスに
持って行ったら、その日のうちに花は
開きます。


温室に入れて、牡丹が新たな栄養を
受けるんじやあない。
もう一切の栄養は受けておって、温室が
ぬくいから すぐに花が開いたんだ。


お浄土に行って、何か貰うんじやない。
もう目的は達したんだ、死なんでも
ええんです。


信心の初一念に平生業成ということは、
往生が定まるだけでなくて、成仏の
功徳が満ち満ちるということでも
あるんだから、それを大きに喜ばねば
ならんのです。


念仏は手段ではなく、念仏は目的なんです。
念仏は目的だから、その先のことは
すべてプログラムが出来上がっている。

いま功徳がいっぱいあるんだ。

おそらく、重病の寝床に伏せっておる私、
考えて見れば礦劫已来の迷いの歴史を
きずって、いま受けた人間界の命の
終りに休んでおると、ビニール程の
生死の境がね、静かに私の体の上を
過ぎて行くであろう。

そうしたら、正覚の華より化生して、

悟りの華が開く。
「念仏は、まことにお浄土に行く種か、
地獄の種か、存じません」とご開山が
がおっしやったちゅうんです。


「念仏は手段ではないぞ、念仏は目的だぞ。」
ちゅうことだ。念仏が手段で往生成仏が
目的ならば、「念仏は地獄の種か、
わしや知らん。」

なんて、そんなこと言えるもんじゃないんだ。

念仏は目的だから、だから、それから
先のことはどうでもよろしい。


今、さとりの功徳が満ち満ちている。
身は汚いけれども、着物の中に
住んでおる私の裸の体の中に、
仏の功徳がみな満ち満ちておる。

死なんでもええんだ。
貰ろうものはみな貰ろうたんだ。
生死の境は、コンクリートや鉄の
扉の様な、大仕掛けなものでは
ないんだ。


蚊帳の様なものが、私の身の上を
過ぎて行ったとき、世界が変わる。

そこはもう浄土である。

  深川倫雄著 如来を聞く 探求社刊



          


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