第1426回 人生を導く教え

令和2年5月28日〜

 教行信証の「教巻」の最初には、
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について、真実の教行信証あり、
とあります。


これがいわゆる浄土真宗とは何か
といったことに対してお答えになられた
言葉であると思うのです。
簡単な言い方をしますと、浄土真宗とは
何ですかと問うて、それは仏教であります
というのが、まず答えです。

では仏教とは何ですかと、こうなりますと、
仏教とは何かというと、自ら助かり、また
そのことが他に伝わり、他が助かっていく
ということがずっと連続していくことが
仏教というものです。


 親鸞というお方は、最初と終わりを
ちゃんと意識しながら書いていらっ

しゃいます。
そして、教行信証の最後の所に『安楽集』
の文をひかれて、これまで、ずうっと
いろいろ言うてきたのは何のためであるか
というと、前に生まれん人は後を導き、
後に生まれん人は前を訪い、そして
その無辺の生死海を連続無窮にして
尽くしていくためであると。

これが仏教というものであると。
前に生まれた者は、「ああ自分は
自分のとこですんだ、もうあとはいい」と、
こういうことではないんです。

前に生まれた人は後を導く、つまり
自分だけ助かったからもういいという
ことじゃない。後に生まれた者、
他の者に及んでゆく。
そして、そういうことがあると、
後に生まれた人が、今度は前を尋ねて
いくことができるようになる。

後に生まれん人というのは、これは
今日の我々と考えていいです。
我々がどうしたらいいんだろうかと
迷った時に、どこにもヒントを
見い出すことができないというのは
悲劇です。

今日の人間は、どうしたらいいん
だろうかと分からなくなったら、
本当に分からなくなるんです。
それで、あとはもう絶望して
沈み込んでいくよりほかありません。


 今、多くの家庭で、前に生まれた者が
後を導くということをなくしたようです。
生きるということについて、何のヒントも
与えてないわけです。

ですから、後に生まれた者は、ぶつかったら、
その後どうしていいかわからなくなるわけです。

どこに尋ねればいいんだろうか、そういう
尋ねる場所を持たない。そういう点では、
我々は非常に不幸な時代に生きているようです。


現代は、外見は華やかですし、豊かそうに
見えます。
けれども、内面の貧しさは、もう覆うべくも
ないですね。

知識情報量は大量に持っていますけれども、

しかしそれは頭の中だけの話であって、
人間は頭だけで生きている存在ではありません。


ちょっと複雑なこと、ちょっと自分に
分からないことが起こってくると、もう
パニック状態になります。   


どこに何を尋ねたらいいか分からない
ということになるんです。

そういうことを思いますと、後に生まれた者が
どこに尋ねたらいいのかという目印になる
ものがほとんど見失われてしまった時代
だと言わざるをえません。

 平野修著 親鸞からのメッセージ 法蔵館刊

 

          


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