第1429回 天眼通の誓い

令和2年 6月18日〜

 一休禅師が ある日、一人の小僧さんと
檀家の法事に参られる途中、たまたま
「うなぎ屋」の前を通りかかった時の
ことです。
禅師は 大きな声で「うまそうだな」と
一人言をいわれました。それを聞いて
小僧さんはびっくりしました。


「自分たちでも、うまそうだな、と
いうのは行儀のいいことではない、
いわんや、一休禅師ほどの人が、
どうしてだろうか。

ひょっとしたら、昔こっそりうなぎを
食べられたことがあるのだろうか。」


こんなことを次から次と考えると、
他のことはすべてうわの空になって
しまいます。
とうとう思いきって夕食の給仕の時に、
小僧さんは一休禅師に うなぎ屋の前での
一人言はどういうことかと尋ねました。

すると、一休禅師は「そんなことを
言ったかな、それにしてもお前は 
まだうなぎ屋の前をウロウロして
おるのか」といわれたそうです。


 うなぎ屋の前では うなぎがおいしい
と思い、花屋の前では花を 美しいと
ながめ、果物屋の前では果物を賞味し、
その時その時、眼に入ってくるものを
精一ぱい見て味わっていく時、人生は
限りなく広がり、豊かになります。


世の中には数かぎりない世界があるのです。
これらの数かぎりない世界を、自からの
「思い」だけで見て、一つのことに
とらわれ、そのことだけにしばられると、
どれだけ多くのものを見ても、何にも
見ていないのと同じ、狭く、貧しい
人生で終わるものです。


 自分の小さな「思い」にしばられて、
だんだん視野を狭くしていく私たちの為に、
如来は「天眼通」を誓ってくださるのです。


私たちは、自分の「思い」でみた見方を
他に押しつけますし、他の見方をするものは 
すべて間違いであると きめつけています。
そして、すべてを自からの「思い」の中に
引きずり込もうとします。
そして、自からが傷つくばかりではなく、
他の人をも大いに傷つけているのです。


 こんな生き方しかできない私たちを、
阿弥陀如来は悲しんで、自由にものを
見ることのできる能力、「天眼通」を
誓ってくださったのです。

自由にすべての世界を見ることのできる
能力で、私たちの人生は無限の広がりと
豊かさをもちます。


 阿弥陀如来をよりどころに生きる信心に
おいて、無用の力みや きばりはなくなり
ますし、小さな「思い」にしばられることも
なくなります。


阿弥陀如来は 自分の狭い「思い」に
とらわれて生き方ている私たちを、悲しんで、
自由にものを見ることのできる能力、
「天眼通」を誓ってくださったのです。


  人となれ仏と成れ 永田文昌堂刊
          藤田徹文師



          


           私も一言(伝言板)