第1675回 対治と 同治

 令和7年 3月6日~

 仏教に「同治」と「対治」という教えがあります。
「治」は、治療の治、政治の治、治めると書きます。

 たとえば高熱が出た時に、氷で冷やして熱を下げようとするのが「対治」で、
逆に、温かくして汗をかかせて熱を下げるのが「同治」といい、
熱には熱をもって治すという、対照的なやり方があるといいます。


 これは、悲しみ苦しんでいる人に、「ダメじやないか。
もっと元気を出しなさい」と、立ち直らせようとするのが「対治」で、
「辛いだろうね。よく分かるよ」と 悲しみを分かち合い、
相手の心の重荷を下ろしてあげるのが「同治」です。

「対治」は、現状を否定するのに対して、「同治」は、現状を
肯定するところから出発した考え方です。
現状を否定するか 肯定するかで 対応が違ってきます。

 教育者で僧侶の東井義雄先生の著書『いのちの教え』の中に
こんな話があります。


 小学校に入学以来ずっと登校拒否をしていた少年がいました。
担任の先生たちは、色々手を尽くし、「元気を出せ、頑張れ」と、
熱心に励ましましたが、どうにもならないまま六年生を迎えてしまいました。
六年生の担任になったのは、気の弱い一面がある若い先生でした。

その先生は「実は先生、気が弱くて、他の人がうらやましい。
君も僕も、自分のことよりも、まず相手の気持ちを考えてしまうんだよね。
でも、これは、人間として一番大切なことじゃないかなあ、
お互いに、僕らのこの気の弱さ、もっと大切にし合おうね」と
呼びかけたのです。
この先生が担任になってから、登校拒否はぴたりとやんだといいます。

 この先生の対応が「同治」です
一方、それまでの担任の先生たちは「対治」だったのです。
「対治」は、「登校拒否はダメだ」という考えから出発しています。

ところで、
阿弥陀さまには一切の否定がありません。
無条件で私を救いとって下さいます。
ありのままの私を受け入れて下さいます。
「頭が悪くても、気が弱くても 良いじゃないか」
「病気しようが 歳を取ろうが そのままでいい 大丈夫」
と、絶対的肯定、絶対的な許しこそが、阿弥陀さまの
大悲と呼ばれるお心なのです。

「一人漏らさず救う」といわれるのは、ここにあるのです。
これが「同治」の完全なあり方です。
そのままでよい。決して見捨てることはないからな」と。
これが私にとっては、この上もなく有り難いことです。
これは難度海(渡ることが出来ない)と呼ばれる人生を歩む
私たちに計り知れない大きな 支えになります。


阿弥陀さまは 今ここに 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と呼びかけ
はたらきかけていただいているのです。

          


           私も一言(伝言板)