第893回 なにの分別もなく  おぼつかなき次第なり〜

 平成22年 3月4日〜

妙念寺電話サービスお電話いただき ありがとうございました。

ところで 先日 なかなか法座へ付いていただけない方に、
「先だった人が 生きている時だけでなく 死んでからも 自分の言うことを 
 まったく聞いてくれない。何もやってくれない。 と 淋しがっては 
 おられませんか」 と 言いましたら

「ちゃんとお仏壇にも お参りしているし、南無阿弥陀仏も 言っている
 お墓にもお花を上げている  大丈夫です」 と おっしゃる方がありました。

「本堂の法座の ご案内は 住職からではなく 先だった人からの ご案内 
 呼びかけだと味わって、どうぞ無視しないでください」 といいますと、

「浄土真宗は 南無阿弥陀仏だけで いいんでしょう。だったら ちゃんと
 言っていますから 大丈夫です」 と 法座には
 参加しなくても 自分はちゃんと 
お仏壇の前で やることはやっていると
 自信を持って お答えになった方が
ありました。



「確かに 南無阿弥陀仏ひとつで 大丈夫ですが、 『ただ口に南無阿弥陀仏を
 称えていても 往生は難しい』 とも 説かれていますよ」 と 言うと。

「そんなこと どこに書いてあるのですか。見たことない」 と 挑戦的に
返事をされました。そのとき 赤い表紙の日常の勤行集を 手にして

そのどこに書いてあるのか との 質問だったようです。

その方にとっては その日常の勤行集がすべてであり、これ以上のことは
何もないのだとの理解のようでした。 

「 この教本の中には 入っていない、御文章などに何度も出てきます。

例えば

御文章 三帖 2通には 

ただ口にだにも南無阿弥陀仏と となふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。
それはおぼつかなきことなり。・・・・とか

三帖 4通には

ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうに
もひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。・・・・


三帖 5通には

ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべ
きやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。・・・・・


五帖 11通には

なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽 に往生すべき
やうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。
南無阿弥陀仏の六つの字のこころを
 よくしりたるをもって、
信心決定すとはいふなり。・・・・


などなど お聴聞もせずに ただ口に南無阿弥陀仏というだけでは
仏さまのはたらきを ちゃんと 味わうことは 出来ないようですよ。

是非是非 お聴聞を お忘れなく 」 といいますと 黙り込まれてしまいました。


学校で習わないこと 試験に出ないこと テレビや新聞に出てこないことは
重要なことではない。必要ないことである。

新聞もちゃんと見ているし テレビも見ている 世間の会話の中にも出てこない。

自分が知らないことは 大したことではない  重要なことではない。

お寺の本堂では 新聞やテレビや 学校と同じようなことをやっているのだろうから
自分には必要ない。充分に常識があり、知らないことはない。

自分の持っている お聖教に書いてないものは 存在しないと 自信満々の方が
いらっしゃいます。

でも 人間にとって本当に大事なことは何なのか それを 聞いてくれということを
先だった方々 お浄土でさとりを得た方々は 一生懸命に呼びかけておられるのでは
ないでしょうか。

自分も生きている間は 知らなかったが この教えに出あってくれれば
人生が 何倍にも 何十倍にも 有意義になり 喜びが多くなるのだと
どうか聞いてくれ、知ってくれ そして 南無阿弥陀仏とともに味わって
くれと 呼びかけておられるのではないでしょうか。

毎月14日の勉強会 どうぞ お忘れないように。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。

次回は 3月 11日に新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)