第1376回 念仏往生こそが真実の教え(2)

 令和元年 6月13日~

私にまかせなさい。
阿弥陀様は、あなたの救い主ですよと名告り出てくださっているのです。
私はあなたを責任持ってお浄土へ連れていくものであると。
阿弥陀様は名告り出てくださっています。
その仏様の名告り、それがお念仏なのです。

 そのお念仏を聞いたら、私を助けてくださる親さまがいて
くださるのだということに気づきます。
その気づいたこころを 信心というのです。
気づいたこころですが これは気づかされたこころなのです。

その気づかされたこころが私の信心となり、信心を与える
お念仏となって、私の上に響きわたっているのです。
私たちはこの行と信に導かれてお浄土へ連れて往っていただくのです。

阿弥陀様と一緒に浄土への旅を続けて行くのです。
どちらに向かって生きているのだと尋ねられたら、私はお浄土に
向かって生きていると言えるのです。

 仏教徒は死ぬなんてことは言いませんよ。
お釈迦様の場合は涅槃に入られたと言います。
静かな覚りの境地、安らかな覚りの境地に帰っていかれたと、
仏教徒は申してきました。
お釈迦様が死んだとは言わないのです。

それゆえに私たちも ただ死んでいくという言葉は申せないですね。
念仏の行者には 死は似合わない、念仏の行者は生まれて往くのです。
だから往生、浄土に生まれて往くという言葉があるのです。
生まれて往っているのであって、死んで往ってるのとは違うのです。

 往死という言葉なんてありませんね。
死んでいくという言葉にとらわれるから、人生がつまらなくなり、
くだらんことに騙されたり、誤魔化されたりしてしまいます。
もっと堂々と自信を持って、お互い、死ぬのではなくて
生まれさせていただくのだと。

どこに生まれさせていただくのだと言えば、それは如来様の世界に
生まれさせていただく、阿弥陀様のお覚りの境地に入らせて
いただくのだと、こう受けとらせていただくのが大切なのです。

 そして、浄土に向かってまっしぐらに生きていく、それが
念仏の行者の生き方なのです。
決して死に方が問題ではありません。
死ぬという言葉は人間が勝手に作った言葉です。
この言葉に誤魔化されず、死ぬのではなく生まれて往くという
ことが大切なのです。
               浄土から届く真実の教え 梯實圓 自照社出版


          


           私も一言(伝言板)