第1520回 選択称名の願 ~第17願のこころ ~

 令和 4年 3月17日~

法蔵菩薩の48願の中の 第17願のことを
親鸞聖人は、大悲の願とか、諸仏称揚之願、諸仏称名之願、
往相廻向之願、それに選択称名之願などと味わっておられます。

 では、選択称名というのはどういうことなのでしょうか。
選択とは、多くのものの中から、いらないものを捨てて、
私たちになくてはならないものを、ただ一つ選び取る
ということです。

私たちになくてはならないものとは何でしょうか。
それも、 ただ一つとはなんでしょうか。

 あれもあった方がいい、これもあった方がいい、というのが
私たちです。
腹の底から信頼できるものをもたない私たちは、
もしかの時のことを考えると、あれも離すことができない、
これも捨てることができないということになります。

しかし、私たちが離すことも、捨てることもできなくて
にぎっているものは、本当に最後の最後まであてたよりに
なるものでしょうか。

 いざとなったら「てたのみおきつる妻子も財宝も
   わが身には一つも相添うことあるべからず」(御文章)
ということになりますよ、といわれた蓮如上人のお言葉を
思い出してください。

 一時しのぎにしか役立たないものを、あれもこれもと
かかえこんで、結局は、それらを逃がさないように、
失わないように、ビクビクしながら、エネルギーを
消耗させているのが私たちではないでしょうか。

 せっかくの人生、手にしたものを管理するだけで
終ってしまうならば、これほど悲しいことはありません。
本当に信頼できるものを、どんなことがあっても、
私を裏切ることのないものをもたないから、このような
萎縮した人生になってしまうのです。

 何がなくても、これがあるから、私はこの人生を
精一ぱい生きることができる。
どのような苦難にであっても、これがあるから私は
へこたれずに、この人生をのり超えていける。
ただ、これ一つあれば、私の人生は大丈夫といえるもの、
それが南無阿弥陀仏なのです。

 「どのような失敗をしようが、他人が何と言おうが、
私がいるよ」と、私たちを励まし、ささえつづけてくださる
南無阿弥陀仏があれば、どのような人生をも、のり超えて
いくことができます。

 苦しくて逃げたくなったら、南無阿弥陀仏のみ名を
称えればいいのです。
「私がいますよ。頑張ってごらん」という南無阿弥陀仏の
はげましの声が聞こえてきます。
悲しくて、ついうつむきかげんになったら、南無阿弥陀仏の
み名を称えればいいのです。
「元気を出せよ。私がついているではないか」という力強い声が
聞えてきます。

 自らとなえる南無阿弥陀仏の称名が、阿弥陀如来の
力強く私をはげましてくださる南無阿弥陀仏の名号となって、
わが耳にとどいてくださるのです。

 常に行き詰って、右往左往し、戦々恐々としている私たちに
なくてはならないもの、それもただ一つのものとは、いつでも、
どこでも、だれでもが易くたもつことのできる南無阿弥陀仏です。

  煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は万の事みなもてそらごと・だわごと・
  真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにておはします(歎異抄)
と、親鸞聖人は、最後の最後まで私たちの人生をささえてくださるものは、
「ただ念仏のみ」とよろこばれています。

 念仏申すこと、すなわち称名が、私たちになくてはならないものであると
諸仏までも総動員して、選びとってくださったのが第十七の願であります。
それで、親鸞聖人は、この第十七の願を「選択称名之願」と
名づけてよろこばれたのだと、私はありがたく頂いているのです。

   人となれ 仏となれ 藤田徹文著 永田文昌堂刊 より


          


           私も一言(伝言板)