第1019回 人生の目的  〜お浄土へ生まれていく〜
 
  平成24年 8月 2日〜


一味という、季刊の宗教冊子があります。
その夏の号に、「本願は人生の目的」〜いのちの目標〜 という
天岸浄圓先生の文章がありました。その一部をご紹介します。


阿弥陀さまは本願に、私たちの人生の目的、いのちの目標を「念仏往生」と
教えてくださいました。
なぜなら「念仏」も「往生」も、私たちが決して願うことがないと見通された
からでしょう。

「往生」とは「生まれて往く」こと


人間は自分たちの寿命の尽きることを「死」と名づけました。
ところが仏さまは「往生」「生まれて往く」といわれました。

しかし、私たちは「往生」といわれても、自分たちの考えが間違いないと
信じ切っていますから、その言葉をすなおに受け入れることができません。

それよりも自分たちが理解できないことには、「そんなバカな−」と、
考えること自体を否定してしまいます。

でも、仏さまの言葉を聞かせていただく者からすれば、あなたは無意識かも
知らないが、仏さまを「バカな」と言ったことになるのです・・・。


そんな傲慢な人間のありさまを、親鸞聖人は「正信偈」に「邪見驕慢悪衆生」・・・
思い上がりも甚だしい者と誡められました。


 表現によって内容が変わる

 日本語は同じ事柄でも、表現によって意味が大きく変わります。
たとえば、食事をすることを「いただきます」「頂戴します」というときと、
「食べる」というのと、「喰う」とでは、同じことでも全く気持ちが違うことが
知られるでしょう。


 寿命が尽きることも同じです。
それを「死」とよぶか「往生」とよぶかです。事実そのものは変わりません。
ですから別れの悲しみ、残る者の寂しさ、辛さはあります。
しかし「死」の言葉の持つ「暗さ」「虚しさ」「絶望」「無意味さ」「不幸」は
なくなります。


人間は「生」を「はじまり」として「慶び」「光」「希望」「幸せ」と
意味づけました。そして対極の「終わり」を「死」と名づけました。
ですから「無意味さ」「暗さ」「絶望」「不幸」となってしまったのです。


もし、それがまちがいでなければ、いのちはすべて「不幸」に終わり、
「絶望」に向けて生きているといわねばなりません。
実はネーミングの誤りなのです。それを正してくださるのが「往生」と

教えてくださった、仏さまの言葉なのです。

「死ぬ」といわずに「生まれて往く」と言いなさい。そこには虚しさは
ありませんよ。

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
 次回は、8月9日に新しい内容に変わります。

         


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