第1387回 宗教と科学
 
 令和元年 8月29日~

 現代は科学の時代です。
近代文明は、西欧で発達した科学によって飛躍的に進歩しました。
わが国においても多くの病気は克服され、経済状態は改善されて、機械器具の発明により、
生活は大いに便利になりました。
このような科学文明の恩恵にまったく浴さない地域は、地球上でも少なくなってきている
といってよいでしょう。


 けれども、こうした科学の発達によって、ものの考え方が大きく変わってきました。
世界や人間についての見方は、昔とはすっかり違っています。
天上界に神々や天人がいるとか、地下界に地獄があるとか、人間には魂があって死後も
存続するとか、そういう考えは現代人にはだんだん受け入れにくくなっています。


 最近の疑似宗教には、世界の終末とか、死後の裁きなどといい立てるものもありますが、
そうしたものは、インチキくさいとして、一般には受け入れられません。
なんといっても、信用のあるのは科学的な考え方です。
実験と観察によって確立さわた見解だけが信ずるに足るもので、それ以外のものはすべて
迷妄だというわけです。


 そうした科学的・合理的なものの見方は、しりぞけるべきものではありません。
れを積極的に受け入れるところに、人間の生活の進歩、発展があることは
疑い得ないことでしょう。


 しかし、科学的なものの見方がすべてではありません。
人間には、科学の領域とは異なった領域が開かれているのです。
それは、意味の領域です。
人間は、事物がただあるというだけではなくて、「なにゆえにあるのか」
「なんのためにあるのか」ということを明らかにしようとします。
とくに人間という存在、自分という存在が、「なぜ生きているのか」ということを
考えようとします。


 科学的な見方が確立しつつある現在、宗教のようなものは過去の遺物で、
もう何の役割も果たさないと考える人もあります。
「すべての現象は、解き明かされようとしている。
見える世界も、見えない世界も、人間の認識できないことはないのだ」という、
楽観的な考えをもつ人も多いでしょう。


 しかし、本当にそうでしょうか。
私たちの前には、依然として秘密のままで閉ざされていることがあるのではないでしょうか。
たとえば、「いのち」というものです。

生れることや死ぬことは、一つの生命現象として説明することはできても、自分自身
生や死は深い神秘のなかに隠されています。

たとえ臨死体験をどれほど集めてみても、「いのち」の来るところ、去るところは
明らかになりません。


 宗教も、それを理論的に解き明かすわけではありませんが、かぎりある
「いのち」を超え出る道を開こうとします。
そこに科学とは違った、宗教の独自な領域があるのです。


               中央仏教学院 通信教育 入門課程 テキスト より


          


           私も一言(伝言板)