第1300回 ただ法を聞く

 平成29年 12月28日~

 浄土真宗は「聞法(もんぽう)の宗教」であり、法のあるがままを
お聞かせいただいて救われていく教えです。
ですから聞法を何より大切にしています。

親鸞聖人は「『聞其名号(もんごみょうごう)』といふは、本願の
名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを
『聞』というなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」
 (註釈版聖典678 頁)と示されています。

つまり聞法とは「いっさいの衆生を必ず救いとって浄土に生まれさせよう」という
誓願が成就された本願の名号(南無阿弥陀仏)を疑いなく聞きひらくことであり、
その阿弥陀仏の喚(よ)びかけどおりに聞き受け、何のはからいもなく
そのお救いにまかせたことを信心というのです。

また信心は、仏の大悲のまことをこの身に賜ることですから、仏さまのはたらき
一つで自然に浄土に往生させていただくのです。

霊山(よしやま)先生は「信じるという一般の語は、思い込む、念じる、祈る、
あるいは信念などの語と類似していて、私の意志の力で作り上げる心理作用である。
これに対して他力の信心は阿弥陀仏の本願という法則を聞いて、なるほどと

うなずくことである。
それは法則を私の中に受け入れることであり、私的な我執に代わって本願という法則が
私の拠点になることである」(『歎異抄
親鸞己れの信を語る』)と、
他力信心の核心をわかりやすく解き明かしてくださっています。


聖人は「浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである」と
述べられています。
それは、如来のはからいによって自然に浄土に往生することは易いことであるけれども、
己れの信念や意志がかたく、とらわれ心がつよい私たちには、如来の真実に心を開き、
その法則を受け入れることは至難のことであるといわれるのです。


浄土真宗は、一定期間集中的に念仏したり聴聞すれば信心が得られるとか、
決められた聴聞の回数や学習段階の目標を一つひとつ満たしていけば
必ず信心に到達する、というような教えではありません。
近道を探すことよりも、ただひたすらに聞いて、じつはその過程の
一つひとつにこそ意味があると思われます。

また、たとえ信心が得られたからといって、そこで聴聞が終わりになるわけでも
ありません。聴聞には生涯卒業はないのであります。
仏の御前にどこまでも愚かな自身を投げ出し、ひとすじにそのおこころを聞き、
仏の法則にまかせていくばかりであります。
                    貴島 信行(きしま しんぎょう)


          


           私も一言(伝言板)