第1448回 大悲還相

令和2年 10月29日〜

 浄土に往生するということは、
直ちに大慈大悲を完成して、業苦に沈む 
すべての者を思いのままに救っていく
大悲還相の菩薩となることである。
これほど有り難いことはないと
いうのが親鸞聖人の往生を歓喜される
内容だったのです.


 お浄土へ行ったら何をするんだと
言われたら、生きとし生けるすべての
者の「いのち」を、わが「いのち」
として生き続ける、そして救い続ける.
悲しむ人がおれば そこに私がいる、
悩む人がおればそこに私が寄り添っている、
いつでもどこでも、私のいない時も、
処もなくなる、それが浄土に往生する
ということの意味であるといわれるのです。

 それが浄土に往生することの意味で
あるならば、私の本格的なはたらきは
これからである。
この世にいる限りは、固い自我の殼に
隔てられて溶け合うこともできず、
どうしてやることもできなかったが、
今度お浄土へ行ったら確実に救ってやる。

 たとえあなたがどこにおろうと、
どんな状況にあろうと、今度は確実に
私は救ってやる。そういうことを
言わせていただける身にしていただいた
ことを聖人は歓喜していらっしゃった
わけです。


 私どもはみな幸せを求めている
といいます。しかし誰の幸せかといえば、
ほとんどの人は自分の幸せです.
そして自分が幸せになるためには、
時と場合によっては、不幸せは人に
しつけてでも自分に有利な位置を
確保したいと願っています。

 そうすると、幸せになりたいという人が
多ければ多いほど不幸せを押しつけられる
率が高くなるわけですから、結局はみんなが
幸せを求めているということは、みんな
不幸せへの道を歩んでいることになる
でしょう。

 幸せになりたいと思って不幸せへの道を
歩んでいる。
これを仏陀は「
?倒」(てんどう)の
想といわれたのでした。
ひっくり返ったものの考え方をしている
というのです。


 では真っ当な生き方とは何ですかと
尋ねたならば、仏陀は、即座に
「不幸せは私が引き受ける。
だからあなた方は幸せになってください」
と願うことだと言い叨られるはずです。
その言葉に従って、そのような生き方を
菩薩というのです。

 残念ながら私は「こういう生き方が
真実であると聞かせていただきました。
そしてそう信じています。」とまでは

言えますが、そういう生き方を今私は
していますとはとても言えません。

 それが凡夫であることの悲しさであり、
申し訳なさです。 
しかし私もそれを堂々と言い切ることが
できる時がきます。

 それが浄土に生まれた時です 
しかし今は「それが真実なんですよ」、
「それが仏の大悲心を学ぶ」という
ことなんですよ、ということだけは
言い続けたいと思います。


  梯實圓著 親鸞聖人の信心と念仏 
          自照社出版刊


     


           私も一言(伝言板)