第1525回 こころ ころころ ~第18願のこころ②

 令和4年 4月21日~

「信じて」といいますと、何か阿弥陀如来に
しがみついてというようにとられそうですが、
そのような意味ではありません。

 私は信心の「信」を、親鸞聖人の「信は審なり」(教行信証)の
ご指南によって、“あきらかになること“ ”はっきりすること“ 
であると頂いております。


 「審」とは、おおいの意味の「うかんむり」と、
ものをこまかくわける意味の「番」とから成り立ち、
おおわれて明らかでないことを明らかにするという意味の字です。

 私は信心の「心」については「二種深信」のお示しを通して、
一つには私の心、二つには阿弥陀如来のお心と頂いています。
ですから、信心とは、明らかでない私の心が明らかにされ、
明らかでなかった如来のお心が明らかになることであります。

 では、私の心がどう明らかになれるのでしょうか。
私たちは「他人の心ほどあてにならないものはない、
あてになるのは自分の心だけ」と思っています。
しかし、本当のところどうでしょうか。
確かに他人の心はあてにならないかも知れませんが、
自分の心もあまりあてにならないのではないでしょうか。

 今年こそはこれを、今日中にこれだけはと決心しても、
状況が変ればすぐ変ってしまいます。
「こころころころ」とはよくいったものです。
私たちの心は、縁にふれたらどちらにでも、
ころころところがっていきます。
それも上手に理由づけしながらころがっていきます。

それで、他の人の心変りを「うらぎり」というお互いが、
自分の心変りは、「うらぎり」と思わないのです。

 あてになると思っていた私の心が、あまり
あてになるものでないということが明らかにされるのが
信心の一面です。


   人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より


          


           私も一言(伝言板)