第1315回 凡夫はわたくし

 平成30年4月12日〜

 「隣り蔵建ちや、ワシヤ腹が立つ」ということばがあります。
隣りの家がわが家より素晴らしい家を建てると、心から素直に喜べない自分がいます。
これは蔵(家)だけではありません。
わが子と隣りの子が同じ学校(会社でも構いません)を受験し、わが子がダメだった時、
自分の心の中はとてもお祝いを言う気持ちにはなれません。


それどころか思ってはならないこと、口に出せないことがたくさんあります。
また、職場をはじめ、ギクシャクする複雑な人間関係を通して、
「もしあの人さえいなかったなら」と思った時、それは一人のいのちの
全存在を否定する恐ろしいこころです。

しかも言葉や態度に表わさなかったなら、自分の本性は他人にはわかりません。
その他、名誉、お金、肩書、愛情……どれ一つとっても自分が執われのないものは
一つもありません。実に厄介な存在が凡夫です。


 ところが世間には時々、「自分のことは自分が一番よく知っている」と
豪語する人がいます。しかし「知っている」ことと「知っているツモリ」とは
大きな隔たりがあります。
「ツモリ」とは「不実」の意味で、本当のことではありません。
自分が一番身近な存在だけによく見えないものが自分なのです。

 本願寺第八代宗主蓮如上人は、「他人の悪いところはよく目につくが、
自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づく
ようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って、
心をあらためなければならない。
人が注意をしてくれることに耳を傾け、素直に受け入れなければならない。

自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」
(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』一二五頁)と戒められています。


この言葉を頭の中ではナルホドと理解はできても、日常生活ではなかなか
実践できません。
他人のことになると、どんな小さなことでも見逃さないのが自分です。
夫婦げんかや嫁・姑のホットな軋轢などを折々に目にし耳にします。
「鉄砲は他人を撃ち、仏法は己を撃つ」ものであると、いわれています。

 このように、わが身には仏になる要因は何一つ持ち合わせていない、
どうにもこうにもならないものを「凡夫」というのです。

『正信偈』には「凡夫」または「凡」のことばが四ヵ所に記されていますが、
この後には必ず阿弥陀如来のお救いの言葉が添えられています。
凡夫だから見捨てられるのではなく、見捨てることのできないのが
阿弥陀如来の大きなお慈悲の心なのです。

親鸞聖人は『歎異抄』で[それほどの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『註釈版聖典』八五三頁)
と、しみじみよろこばれています。

     藤井邦麿著 「拝読浄土真宗のみ教え」の味わい 本願寺出版社

          


           私も一言(伝言板)