第1365回 私の側 仏さまの側

 平成31年 3月28日〜

 深川倫雄(本願寺派勧学)のことばです。

「あるような気がせん」
お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて
待っていて下さるちゅうたら「はあ、そうでございますか」と
聞いておけばいいんです。  (「仏力を談ず」、304頁、永田文昌堂)

         ◆

 ご開山さまは はじめ、「ありがたい阿弥陀さまのお心にかなう
人間になって救われよう」となさっておったんです。
ところが仲々、阿弥陀さまのお心にかなうお同行になられん
というのが悩みでした。
そして法然上人を尋ねると、そりゃまるっきり違います。
我々が阿弥陀さまに合わせるのじゃなくて、阿弥陀さまが
私に合わせて下さったのであります。 (「仏力を談ず」、313頁)

         ◆

 信心とご報謝は理屈が違う。
信心からご報謝がはじまります。
それで大切なのは信心ですから「信心をもて本とせられ候。」
そうすると報謝を末とする。
ですからいつも信心のお話があるわけです、信心は何の話か
というと如来さまのお話。
ご報謝は私どもの努力。私どもの努力をご信心のところで
ごっちゃに考えるのを自力という。   (「仏力を談ず」332頁)

         ◆

 私共の側を捨てるのがご法義、他力のこ法義なんだから、
心掛けて私共の側から言わんようにするのがよいですよ。
「ちょっとお尋ねしますが」と尋ねられたとします。
「あなたのお領解をいうてみなさい」
「はい、私は間違いない親さまじゃといただいております」と言うと、
そりゃあ私の側の言いかた。

「はい、必ず救うの親様でございます」と言うたら仏様の側。
「あんたのお領解を言うてみなさいと言うたじゃありませんか」
「はい、必ず救うの親様であります」
「あんたのお領解を尋ねているのです」
「私が言うておるのだから、それでいいじゃないですか。」   
あのねえ、自分を語らなくても自分を言うことはできるんです。

                   (「仏力を談ず」、337頁)

          


           私も一言(伝言板)