第1447回 すべては如来のお育て

 令和2年 10月22日〜

 他力の世界から申しますと、
自力というのは、如来さまのお恵みを

自分の功績のように横取りしている
過ちを犯していることになります。


それは「南無阿弥陀仏」とは、
如来さまが私に「われよく汝を護らん」
救いを告げておられる言葉
(本願招喚の勅命)であるのに、
それを聞こうともせずに、
「私を助けてください、阿弥陀さま」
と自分が叫んでいる言葉として
しまっていますから、如来の救いの
声が全く聞こえないのです。


そのような過ちを繰り返している私を、
如来は見捨てたまうことなく根気よく
導き、念仏は如来が私をお喚び
くださっているみ言葉であった

と受け容れるところまで、久遠劫来、
育て続けてこられたのです。


親鸞聖人はそのことを「たまたま
行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と

仰せられたのでした。


「お念仏は称えているけれども、
お浄土ヘ行けるかどうかが

わかりません」というような言葉は、
実は浄土真宗を聴いたことのない
人の言葉です。


そういう受け取り方が、そもそも
本願の念仏を誤解しているのです。

それは「お念仏を称えるのは
私の仕事であるが、お浄土へ連れて
行くのは仏さまの仕事である」と
理解しているからです。


 けれども阿弥陀如来さまの本願力は、
そうではなくて、念仏する気の
ない者を育ててお念仏をする者に
育て上げ、如来・浄土を真実と

仰ぐ人間に転換し、変革して
お浄土へ連れていってくだざるのです。


言い換えれば私を念仏する者に
育て上げた力が、私を浄土へ連れて

いってくださる力なのですから、
念仏しているが、これで救われるか

どうかわからないというような話とは
全く違っています。


 一つの本願力が、私を念仏者に
仕上げ、お浄土に向かった入間に

変革して浄土へと迎え取って
くださるのです。


ですから一声でも、お念仏が
現れてくださるならば、すでに
如来さまの救いの手が私を念仏者に
してくださっていると受け取り、

「お助けくださって有難うございます」
とお札を申し上げるべきです。


 如来さまが私をお育てくださる
ご縁は、その人その人に応じて
さまざまです。
さまざまな方法をめぐらせて、
お育てくださっています。


みなさんも、「ああ、あれが
ご縁だったな、これがご縁なの
だなあ」と、いろんな仏縁に
思い当たることがあろうと思います。


その仏縁には順縁もあれば逆縁も
あります。 
順逆さまざまな人生の出来事を
ご縁としてお育てくださるわけです。


 その意味で、どのような出来事の
なかにも如来さまのお導きの手が

伸びています。
親鸞聖人が「この如来、微塵世界に
みちみちてまします」と言われたのは、

そのことを仰せられたのに違いありません。

  梯實圓著 親鸞聖人の信心と念仏 
         自照社出版刊


     


           私も一言(伝言板)