第1366回 努力の質が問題

 平成31年 4月4日〜

 本願寺派の勧学だった梯實圓和上のことばです。

先哲は、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪の機の中に味わう」

といわれています。
信心は自分の心の中にさがすのではない。
「必ず救う」とおおせられる本願招喚のみことばを聞き、
救いのお手元のたしかさを仰ぐことです。

反対に如来の慈悲は、如来のがわに仰ぐのではなく、
わが身の煩悩罪障の中に味わうのだといわれているのです。

   (「聖典セミナー 歎異鈔」、235頁、本願寺出版社)

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先日ある講演で、「なかなかお念仏が出ないのですが、
どうしたものでしょうか」という質問をいただきました。
「どしたものでしょうか」といわれても困ります。
私が代わりに称えてあげるわけにはいきません。

「称えない自分が浅ましいと気づいたら、すぐにお念仏することです」。
これしかないのです。

人間というのは、自分の心に任せていたら段々段々
怠ける方に行くものです。

「自分の心に任せないで、仏様に任せろ」と言われるの
ですから、仏様の仰せに任せてその仰せの通りに
お念仏しようと勤めていくことです。

「勤めたら自力になるではないか」と言いますが、そんなものは
自力とは言いません。
一生懸命念仏して「これが仏様のおはからいだった」と気がついたら、
それを他力というのです。

一生懸命念仏して「俺がやった」と自慢しているのを
自力というのです。

自力と他力というのは努力するかしないかという所で見てはいけません。
努力の質の問題なのです。怠け者の自分が、謹み深く努力し励んでいく。

そして、こんなに励む私ではなかったのに、はげまして

いただくといのは有り難いなというふうにいただければ、
それを他力というのです。

(「せいてん誌上講演 正信偈A、『季刊せいてん』103号『本願寺出版社』

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「総序」に「聞思して遅慮することなかれ」というお言葉があります。
私が思ったら思っただけ間違うぞ、だからお前の考えを
横に置いておけということです。

人間の考えを捨てる訳にはいかないから、ちょっと横に置いておけ。
教えを聞く時は自分の考えを横に置いて、仰せの言葉をスウーと
受け入れる。
すると仰せの言葉が主体、主人公になる。

(「せいてん誌上講演 正信偈C「季刊せいてん」105号『本願寺出版社)

 

          


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