第978回 八方の風に 柳は  〜気にいらぬ 風もあろうに〜

 平成23年10月20日〜

田舎の座敷の鴨居に すすけた額があり、『八方の風に 柳は 柳かな』
という、句があったことを、思い出しました。
叔母は、正岡子規の直筆だと聞いた、大事にしなければと言っていたことを。

 友人のブログに、近くのお寺でお聴聞した軽妙な語り口の法話の中に
理性をまったく要としない「他力」の例えとして

外国の祭りに 赤ちゃんを、高く放りあげ、落ちてきたところを受けとめる、
という行事がある。

親は 必ず受けとめる。
どんなに高く 放り上げられても赤ちゃんは、笑っている。
赤ちゃんは、親を信用しているから、笑っているのだろうか。
いや、そうではなく 赤ちゃんは、何も考えていないのである。・・・・・


 この文章を見て、風に柳を 思い出したのでしょうが、
博多の仙腰a尚の川柳に、「気にいらぬ 風もあろうに 柳かな」というのも
有名です。

柳は どんな風が吹こうと、逆らわずその風に従う。多くの植物も、
与えられた条件の中で精一杯に 生きています。


しかし、人間だけは、それも赤ちゃんの時には自然に生きていたのに、成長し
知恵がついてくると、自分の思いのままになることを望み、怒り腹立ち
喜び泣きながら生きているようです。

 境内の柿の木を見る度に思います。秋になれば葉が色づきやがて散り、
柿の実も青から黄色,赤く変わって落ちていきます。

人間も いつまでも変わらないものではなく、歳を重ねてやがては
いのちが終わるものなのに、自分だけは 違う特別と思っています。

生老病死の苦しみを 自然現象として受け止めるのが普通でしょうが
仏教では、自分が作った業によって、行いによって、他のものを苦しめ
痛い目にあわせた そのことが 今、自分に返って来ていると、
理解してきたようです。

歳を取ることでの様々な苦しみも、知らず知らずに、親や兄弟、周りの仲間に

迷惑をかけ、苦しませたその報いを,今になって受け取っているのだと。
人間だけを悩ませ苦しませたのではなく、生きていくために他の生き物を殺め、
苦しみを与えたことに比べれば、こんなことでは、相済みません。

申し訳ありませんと、それなのに、こうして生かされていることを 有り難く
喜んでいたのだろうと思います。

こんなことでは、あいすみません。申し訳ないもったいないと

身体や心の痛みの中にも よろこびを味わっていたのではないかと思います。

南無阿弥陀仏は、気づいたことへの感謝だけでなく、気づかない
多くのことへも 感謝と喜びと,お詫びの言葉であろうと味わいます。

風も光も音も臭いは勿論、痛みも苦しみの一つ一つを、忌み嫌い
嘆き悲しむのではなく、有り難く充分に味わえる、豊かな人生で
ありたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

次回は、1027日に新しい内容に変わります。



         


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