第1462回 喜びを感じる力

令和 3年 2月4日〜

 子どもはお嬢さんばかり、二人とも
結婚したので、お墓から納骨堂に
移りたい、というお母さんが
来られました。


 改修の前に、本堂でお勤めをして、
こんな話をしました。

子どもの頃、すべてが自分のために
あると思い込んでいました。


親も祖父母、周りの人々は みんな
自分の為に存在していると錯覚して
いました。

だんだん成長し、思い通りにならない
ことがあることも知りましたが、

それでも自分中心で、自分の方から
世の中を見て、都合のいい人は、
良い人、都合の悪い人は、悪い人と、
損得、好き嫌いで判断して
生きてきました。


結婚し、子どもに恵まれても 
自分が中心で、我が子、そして、
我が孫でした。


 今回、お墓のことで、先祖とは、
親とはどういう位置関係か。

自分のために努力してくれた親
というより、年老いて弱った親、
私が面倒を見、世話をしておくった
親とのイメージを持っています。


 お寺とご縁の薄い方で、
こんな方があります。

苦労して育てたのに、子どもたちは
親の苦労を忘れて、振り向きも
しない感謝もしないと、

嘆かれる方々です。
くやしいと、自分の立場からだけで、
世の中を見ておいでの方の
苦しみです。


 ところで、仏さまのお話は、
仏事は、何を伝えようとして
いるのか。

自分の方からしか見ることの出来ない
この私に、見られている自分、
世話をしてもらった自分、
仏さまの話を聞きながら、
子どもの立場に戻って、
親と子どもの関係を考え直す
力を育てようとする訓練では
ないでしょうか。

「貸した金は忘れないが、
借りた金は忘れる」といいますが、
自分がしてやったことは、
何一つ忘れていないものの、
同じことを自分がしてもらった
ことは、一つも気づかずにいます。


してあげた私から、してもらった私、
お世話をかけた私に転換する。


仏さまの話、仏さまのはたらきを
聞くことで、気づきはじめるのは、
多くの力にささえられて今ここに
いる私だと、これまで気づかなかった
そうしたご恩に気づく力を育てる
機会を、先輩達は、仏事として
残してくれたのでしょう。


今まで持たなかった新たな視点が
芽生え、感じる力が育ってくると、
新しい喜び感謝、有り難さを数多く
味わうことが出来るものです。


有り難さを感じる力が育ってくると、
自分の努力より、親たちをはじめ
周りの人々からの大きなはたらきに
気づき、なんと幸せな人生だった
のだろうかと、喜べる能力が開発
されていくのです。

私がしてやっただけでは、子供たちが
育ち離れていった後、取り残された
寂しい辛い人生で終わってしまいます。


私は幸せな人生だったと気づく
ことが出来るように、お寺を、
お墓を、お仏壇を、そして仏事を通して 
子どもや孫に受け取らせようと、
これが仏さまのはたらきだと、
味わいます。


人様の思いを、はたらきを
感じ取る力を磨き、私の人生は
幸せいっぱいだったと思えるように。


もし、気づかずに自分中心の
ままでいれば、辛い苦しい人生で
終わってしまうもの、


仏事を義務感だけで終わらせては
もったいないことです。

仏さまのはたらきに育てられ、
喜び多い豊かな人生を 感じ
取らせていただきたいものです。


 では、どんな仏さまになるのか、
南無阿弥陀仏の仏になると言われます。

阿弥陀さまのはたらきを褒め讃える
仏さまになるのが目的であると。

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と
讃嘆する仏さまになるために、
今人間でいるということになります。


 ところが、多くの人は若さが
永遠に続くことを望み、健康である
ことを期待し、死んだらすべてが
終わりだと思い込み、毎日毎日
悪戦苦闘しています。


テレビを見れば、「いつまでも若く、
健康で長生き、それには努力こそが
大事、その努力を助けるために、
これを飲み、あれを使うと効果甚大、
みんな使っています」と繰り返し
繰り返し、呼びかけてくれています。


 そこで、体や心が痛い苦しいと
お医者さんに行くと、様々な治療を
して、お薬を出して、悪いところを
治していただきます。

考え方によっては、どんどん成長して
成長しすぎて、老いを、病を得て
いるのに、悪くなってしまったと
思い込み、悲観しています。


これは、人間の狭い知識・理解しか
持たない人々の発想ではないでしょうか。


お釈迦さまは、人間の目的は、
やがてお浄土に生まれて仏となり、
多くの人々を救うはたらきをすること。
そのために、今生きているのだと。


 わずか100年の人間だけではなく、
まだまだ大きな目的があるのだと
受け取れれば、沢山の喜びや苦しみ
悲しみは、やがて仏となった時の
貴重な経験をしている。

経験豊かな仏になるための勉強期間、
研修期間ではないでしょうか。


 私は間違いなく仏になるために
この世生まれてきたのだと、
疑いがなくなったとき、もう
仏の仲間、正定聚の位にいるのです。


そして南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を
口にする生活は、仏さまの呼びかけに
返事をすると同時に、もう仏さまと同じ
 はたらきをさせていただいて
いるのです。

この世にいながら、仏さまと同じ
はたらきをさせていただいているのです。


仏になっても、南無阿弥陀仏、
生きている今も南無阿弥陀仏。

南無阿弥陀仏で多くの人を、
お浄土へ誘い、そして一緒に仏さまに
なって、ともに生きがいある喜び多い
未来があるのです。


世間では、生老病死といいますが、
仏さまの目から見れば、生老病生、

死が終わりではなく、お浄土へ誕生、生。
どうか、生老病死ではなく、
生老病生と味わい、南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏の仏の仲間としての
毎日を送りたいものです。


          


           私も一言(伝言板)