第1515回 信心正因 ~御文章の内容は ②

 令和4年 2月10日~

 蓮如上人ほど信心を強調された方はないようです。
どの御文章でも信心や安心について述べられています。
この信心は勿論「聖人一流の御勧化のおもむき」であり、
「祖師聖人一流の肝要」であるからであります。

この信心一つにて浄土往生は決定するので、信心の有無は
この私の往生の鍵となります。
しかし、蓮如上人のいわれる信心は、現代どの宗教でも
いわれるような「信じたらたすかる」とか「信じたら幸せになる」
というようなものではありません。

宗教改革者のマルチン・ルターのいう「ただ信心のみ」
という信心とも異なるのであります。

 それは御文書に、しばしば出ているように「他力」という
言葉が頭に冠している他力の信心であるからであります。
他力の信心は、世界のどの宗教にも通じない、仏教一般の上でも
通じない、浄土真宗の独特の信心といえます。
この他力の信心の内容を最もよくあらわしている
機法一体の蓮如上人の解釈をみることにしましょう。

 機法一体は元来西山義の用語であり、西山では南无の機と、
阿弥陀仏の法とが、一つになり合うということが一体の
意味となります。

しかるに蓮如上人は南无の機 又は信と、阿弥陀仏の法又は行とが
一つであるという一体の解釈をされているのであります。
一つになる場合は双方の歩みよりを前提とします。
信じたらたすかるということをよく聞きますが、
自らが信ずるという動作によって、たすかる法が
活動することとなります。

それ故、自らの動作をみとめなければ救いは成立しません。
しかるに一つであるという一体は信心と名号、信と行は
全く一物の異名であります。
あたかも波と水のようにその言葉が異なることは意味も異なります。

しかし、いかに大きな波が立っても水のそのままであり、
水のほかに波はありません。
波は水のそのままが動いている相であります。
それ故、信心の波とは名号の水がそのままこの私(機)の上に
はたらいでいる相であり、はたらいているものは名号の
法のほかにはありません。

それ故、浄土真宗では信心のことを無疑と釈せられるのであります。
自らのはからい、自力心はすべて否定されざるを得ないのであります。
自らのプラスになるのもマイナスになるものもすべて否定され、
与えられた六字の法のままに生かされることとなります。

それ故、他力の信心のものがらは名号六字の法であります。
名号はこの私の上では因法として与えられているので、
信心が正因といわれるのであります。

   市原栄光堂製作宗教CD 「御文章のこころ」より

          


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