第976回 自業自得(自因自果) 〜地獄は一定すみかぞかし〜

 平成23年 10月6日〜

法座を持ち回りで開く巡番報恩講、秋の5日間が終わりました。
京都の大学の大先生のお話を、連続して聞かせていただきました。
お説教というよりも、大学の授業という感じで 有り難く

聞かせていただきましたが、周りを見渡して少し心配になりました。

僧職のものや よくお聴聞した人にとっては とても有り難いのですが、
一般の人にとってみると、それほど重要ではなく、もっと身近な

大問題があるのに、教室の中で、あるいは寺院の中だけで感じ
味わった世界しか、この世には存在しないと 理解しておいでのようで、
どこか、世間離れした生ぬるい感じがするということです。

また、僧侶を目指しながら まだ生活体験のない青年たちにしては、
ただ単なる知識として、試験のためのことばを理解することとなって

こうした授業は とても苦痛な時間ではないのかと思えてきました。

もし、このご法話と同じような授業が行われているとすれば、これから

育ってくる僧侶たちは あまり期待できない、門信徒の方々から、
浮いた存在になってしまうのではないかと思えてきました。

その一つに、生老病死の苦しみも 自然現象として全員苦しみが来る

という世間の価値観だけでなく 仏教の価値観 自分の行いによって
苦しみの世界を作り そこに落ちていくという 自業自得的な
価値観が 少しも触れられない点です。

専門的に勉強されている方には それは当然の常識でしょうが、今

仏教的な知識のない者にとっては そうした仏教の考え方を
ちゃんと押さえた上で、説いていただく必要があるように思います。

「救われる」とか 「お浄土」という言葉の意味も、
社会全体が、戦争や飢饉、台風や津波で破壊された状態、病気になっても

医者にかかるだけの余裕がない時代、食べるものにも事欠く貧しい時代、
科学も進歩していない 希望のない時代であれば、
この地獄のような世界から抜け出せる 救われるという意味は実感して

全員が持っていたのでしょうが、
現代は あたかも極楽か天国に近いような、豊かさが満ちているために、
救われるという意味、お浄土の存在がもう一つ理解出来なくなって

いるのではないかと思います。

そうした時代であるからこそ、自分が他の人に与えた苦しみ悲しみは
やがて自分にも返ってくるという、仏教的な価値観が もう少し
述べられていいのではないかと つくづく思えてきました。

まるで一人っ子のように わがまま放題で、周りの人々を傷つけ

悲しませている存在であることへの気づき、驚き。
自然現象としての老病死の苦から逃れたという一般的な表現だけでは、
仏教は 存在し得なくなるのではないかと感じました。

自分の行いの結果、地獄に落ちるべきこの私を お念仏で なんとしても

お浄土へ救い取りたいとの願い はたらき、南無阿弥陀仏のはたらきを
こころして 味わいたいと思います。

「地獄は一定すみかぞかし」のお言葉を忘れたくないものです。

妙念寺電話サービス 次回は 1013日に新しい内容に変わります。


         


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