第1347回 恵まれた念仏

 平成30年11月22日〜

 親鸞聖人は、二十九歳のとき、それまで二十年間修行された比叡山を降りて、
京都の六角堂に百ヶ日のあいだこもられました。
して、夢のお告げを得て、東山吉水の草庵を訪ね、法然聖人にであい、
まことの道をおたずねになったといわれています。

それは、「お釈迦さまは、たくさんのみ教えを説かれましたが、私のような

愚かなものは、どの教えを依りどころとすれば、よいのでしょうか」と、
自分自身の「いのち」の依りどころをたずねる問いかけでした。


それに対する法然聖人のお答えは、「善人も悪人も、平等に救ってくださる
阿弥陀如来さまの本願を信じて、み仏の仰せのままに念仏申すことです」
という一言だったといわれています。


 お念仏は、たしかに私の口から流れでています。
しかし、それは決して私の煩悩のこころから出たものではありません。
「お願いだから私の名をとなえておくれ、必ず浄土へ生まれさせる」と
誓われた阿弥陀さまの、お慈悲の本願から出てきたものです。


 ちょうど水道の蛇口から出る水は、遠く水源地から水道管をつたつて
とどけられるように、お念仏は阿弥陀さまの願い(本願)から出て、
お釈迦さまや祖師がたのみ教えをとおして、私のところまで

とどいてくださった、み仏の願いの結晶なのです。
それゆえ本願の念仏というのです。


 浄土真宗の中で、とくに信仰の深い人を「妙好人」と呼びますが、
その妙好人の一人、石見(今の島根県)の善太郎さんは、お寺の梵鐘がなると、
田畑で仕事をしていても「はいはい、これからお参りさせていただきます」と
返事をされたそうです。

善太郎さんにとっては、見るもの聞くもの、一つひとつのできごとが、
み仏や親鸞聖人からの、お念仏のおすすめであったのです。
思えば阿弥陀さまをはじめ、あらゆる仏さまや祖師がたにとりまかれ、
お念仏のおすすめのまん中に、今、私は、あるのです。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。
      
                     朗読法話集 第一集より  

          


           私も一言(伝言板)