第1397回 苦悩を解決する道 (縁起をみる その1 )

令和元年 11月 7日~

 ものの本当のあり方がわかれば、必然的に苦悩から解放されるということです。
では「ものの本当のあり方」は、どうしたらわかるのでしょうか。
釈尊は、それを「縁起」として考えられました。つまり、
   縁起を見るものは法を見る。
   法を見るものは仏を見る。
  との言葉を示されたのです。

「私も含めて、この世のありとあらゆるものは、縁起によって成り立っている」と

はっきりわかることが、「仏に成るということだ」といっておられるのです。
つまり縁起に目覚めたものが、仏であるということです。

 縁起とは、「因縁生起」と書きます。
それは、あらゆるものは単独で存在するのではなく、必ず直接的原因(因)と
間接的原因(縁)が、「相互に関わりあってはじめて存在する」(生起)
ということです。


すべてのものは、因と縁によって「仮に有る相」でしかないのです。
因と縁が離れたら、今ここに有るものはなくなります。
このように因縁が集合離散することによって、すべてのものはたえず
生滅変化しています。


 ある有名な哲学者が、「他人と自分の違いよりも、昨日と今日の自分の
違いの方が大きい」という意味の言葉を述べています。


私たちは、ややもすると他人との違いの方ばかりに目が向きます。
けれども、あまり変わらないと思っている私が、生れた以上は確実に
一瞬一瞬変わりつづけ、やがては老い、死んでいかねばならない、
という事実を直視した言葉でしょう。

 つまり、生と死は一つのつながりであり、初めから死の約束の下に
ある生だということです。

このように「私も含めて、あらゆるものの本当の姿(諸行)は、時間的に
たえず変わりつづけている(無常)」ということを、釈尊は「諸行無常」
と示されました。


 また、「因と縁によってできる一切のもの(諸法)は、一つとして単独で
存在しているものはなく、永遠に変わらないという実体的なものはない(無我)」
という見方を、「諸法無我」と示されました。


 このように諸行無常・諸法無我と示された「ものの本当のあり方」は、
言葉をかえると無自性(自性がない)ということができます。
つまり、「私は自分一人で生れ、自分一人で生きていくことは、けっしてできない」
ということです。


 これらの事実は、いわれてみるとごくあたり前のことなのです。
釈尊がはじめて作られたのではありません。
ずっと以前から、事実としてありつづけた「ものの本当のあり方」なのです。
ただ釈尊が、その事実に目覚められ、私たちに示してくださっただけなのです。

この事実は、「法」とも「真如」ともいう真理そのものです。
しかし、私たちはこの真理に背き、この真理と反対の見方、考え方をします。
すべてのものは変わらないと思い、私という固定したものがあり、一人で
存在できるかのように思っています。

                               つづく

           中央仏教学院 通信教育 入門課程 テキスト より


          


           私も一言(伝言板)