第1424回 少しずつマシに

 令和2年 5月14日〜

 浄土真宗で 仏さまを信じるということは、
仏とか浄土という言葉をとおして
表わされたものにふれ、それを知見して
ゆくということで、私自身が変わって
ゆくということでもあります。

 人間の知るという働きには、
よく学んでもの知りになるというような、
頭で知る知り方と、自分の心の
みにくさを思い知り、親の心の
あたたかさにめざめるというような、
心で知る知り方とがあります。

 頭だけで知る知り方は、どれほど
知恵がすぐれていようとも、
ただちに人間それ自身が変わって
くるということはありません。

 しかしながら、心で知る知り方は、
それが自分の内に向かうことに
よって成り立つ、めざめの体験であり、
そこにはかならず、人間自身が変わって
ゆくということが生まれてきます。

 自分自身の中に、悪をいたみ、
善をめざす心がしだいに大きく
育ってきて、その心が、内側から
私をつき動かしてくるようになります。

 そしていままでよりも、いっそう
動きたくなり、動けるようになって
くるのです。
仏さまを信じ、新しい知見の世界が
ひらけてくるようになると、変わって
ゆくといった意味がここにあります。

 法味あふるる随筆や歌をとおして、
多くの人々に知られている
甲斐和里子さんが、その晩年に
自分の信心について語られた中で、

「私は年をとって外面はいよいよ
 不細工になってゆくけれども、
 内面の心根の方は、老いるに
 したがって、すこしずつマシに
 なってゆくような 若いときより
 年をとったいまが、すこしマシに
 なったように感じられます。

 人間がすこしずつでもマシに
 なるということは、ただごとでは
 ありませんが、これもひとえに
 お念仏のおはたらきです」

  といわれておりますが、ここに
真宗の信心に生きるものの、
まことの姿が明かされている
ように思います。

 真宗の教えを聞くようになり、
念仏をもうす日々がすごせる
ようになったら、人間すこしずつ
マシになってゆく、念仏をもうし、
仏を信じて生きるということは、
たとえどれほどわずかであろうとも、
古い自分の皮を脱ぎながら、
新しい自分にいっそう成長して
ゆくということでなのです。

 そして 真宗においてみ仏を
信じるとは、この生命のあるかぎり、
いよいよ深められてゆき、脱皮と
成長をかさねてゆくということに
ほかなりません。

「すこしずつマシになる」という
言葉は、真宗を学び、念仏をもうして
生きつつある私にとっては、
とてもきびしくひびいてまいりますが、
この言葉を大事にして生きたいと
思うことであります。

信楽峻麿(しがらき たかまろ)著 

  真宗入門 百華苑刊

          


           私も一言(伝言板)