第1355回 慚愧と歓喜

 平成31年 1月17日〜

 日ごろから私たちは、「南無阿弥陀仏」と、お念仏をとなえさせて
いただいております。では、お念仏をとなえるとは、どういう意味
あるのでしょうか。


 他のご宗旨では、たとえば「百万遍念仏」などといわれますように、
数多くとなえるほど功徳があると、回数を問題にされるところもありますが、
浄土真宗では、念仏の数が問題なのではありません。


 お念仏をとなえさせていただくことは、お念仏を聞かせて
いただいているのです。
私のような煩悩具足の凡夫を救うために、如来さまが与えてくださった
本願の名号ですから、名号を称えますと、そこには、「罪はいかほど
重くても必ずたすける」と仰せられる、仏さまの大悲のご本願が
聞こえてくるのです。

そして仏さまの慈愛の中に、生かされている自分であることに、
気づかせていただくわけですが、同時にまた、仏さまの教えに
照らされますと、私の愚かな姿が見えてきます。

 平気でウソをいうし、人をどなりつけたり、ねたんでみたり、
欲張りなことを考えたり、とにかく、罪深く愚かな私であることが、
しみじみと知らされます。


 妙好人の浅原才市さん(島根県温泉津町)は。「あさましい」と
「ありがたい」という言葉を、いつも口にしておられたそうです。
「あさましい」とは、我欲にまみれた私であるという、深い反省から
出た言葉です。
また、「ありがたい」というのは、こんな「あさましい」私を救うと
仰せくださるとはなあ、という感謝の思いをあらわされたものです。

 この「あさましい」と「ありがたい」が、お念仏を聞き、お念仏
申す生活の中でひとつになるのです。
この「あさましい」私を、あさましいままで、阿弥陀さまはお救いくださる、
なんと「ありがたい」ことかとよろこぶと同時に、だからこそ、
このみ仏の御恩に報いるためにも、懸命に生きなければならないのです。


      では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう南無阿弥陀仏………

                               朗読法話集 第一集より

          


           私も一言(伝言板)