第1322回 みほとけとともに
 
 平成30年 5月31日〜

 皆さん、自分が辛い、苦しい、悩んでいる というときは、ひょっとすると、
ひとりぼっちに なってはおられませんか。

ともすると、一人くよくよすることが 多いようです。
この自分の悩みを聞いてくれる人、親身になって話してくれる人がいたら、
どんなにか 心安まることでしょう、どんなにか頼もしいことでしょう。

 でも、なかなかそういう人は いないかもしれません。
家族であっても、親類であっても、友達であっても、みんな自分の世界があり、
仕事があり、思いがありで、ゆっくり、心ゆくまで話を聞いてくださる人、
「それは こうしたらよいでしょう」と よい導きをしてくださる人は、
少ないのが現状かもしれませんね。
これが、娑婆というところの悲しい現実の相と言わねばならないようです。

 しかし、仏さまは違います。『無量寿経』というお経の中に、
仏はさまざまな人々のために、請われなくても すすんで友となり、これらの
人々の苦しみを 背負い引き受け、導いていく。
と書いてあります。「請われなくても」とは お願いしなくてもということ。
いつも来ていてくださるということです。

 『無量寿経』の中で、仏さまが こういうすごいことを誓っておられますよ。
  たとえ私は どんな苦難の中に この身を沈めようとも、
  衆生を救うために耐え忍び、この行をつとめはげんで
  最後まで悔いることはない。

 仏さまが「どんな苦難の中に身を沈めようとも」とは何のことでしょう。
仏さまご自身に 苦難があるはずはありません。私たちの苦難のことです。
言い換えたら、「たとえお前たち衆生が、自分で造った罪のために地獄の
大苦難の中に沈み込んでいっても 救うてやろう。もしそれで仏が地獄から
出られなくなっても、一切後悔はしない」とおっしゃるのです。

 私たち人間は、疑い深いもの。一度や二度、仏さまのお慈悲の話を聞いても、
なかなかおまかせしない。そうして地獄に堕ちていかねばならない。

 しかし、如来さまは、「疑うから 駄目なのだ。憐れなものよ」と
見捨てられるのではありません。
地獄の底まで行っても、追いかけていって、かならずあなたを
救わずにはおかない。

あなたが、どんな苦しみを受けようとも、如来はかならずいっしょに
その苦しみを受けていくぞ。あなた一人じゃないんだよ、と、常に
喚びかけていてくださる。

それが「南無阿弥陀仏」の切なるお喚び声なのです。

苦しいときに私たちの口から出てくださるお念仏なのです。

 苦しいとき、淋しいとき、お念仏しましょう。
耳に「南無阿弥陀仏」と聞きましょう。聞くまま、称えるままが、
いっしょに苦しみながら、励ましていてくださる阿弥陀さまに触れて
いるのです。

 こうしていつも私たちに寄り添い、み仏もともに歩んでいてくださることを
憶い、さあ、いっしょにお念仏申しましょう。
  ナンマンダブツ、
  ナモアミダブツ、
  なもあみだぶつ。

               藤枝宏壽師 老いて聞く 安らぎへの法話

          


           私も一言(伝言板)