第1566回 最も度し難いのは この私

 令和5年 2月2日~

 お姉さんの結婚式の朝 お内仏の前で撮った笑顔いっぱいの
家族写真を見せてもらいました。
その大切な写真が、お内仏の前で撮られているということに驚きました。
日頃から仏前に座り手を合わせてきた家族だったから、その場所を
選んだのでしょう。


 七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり
 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし (『註釈版』562頁)

 これは親鸞聖人が作られた「浄土和讃」の一首です。
「講堂」とは 聞法の道場であり、お寺の本堂や家庭の
お内仏を意味します。
親鸞聖人はこの「講堂」の字の横に、小さく「ナラウイエ」と
書かれています。

 いったい何を習うのでしょうか。それは自分自身を習うのでしょう。
喜び、悲しみ、腹を立てる自分自身の姿です。
その姿は時に目を覆いたくなるような愚かしいものかもしれません。
しかし、その見たくないものをしっかりと見て、習う。
それが本堂やお内仏という場なのです。

詩人の相田みつを氏は、「じぶん/この/やっかいなもの」
  (『いのちいっぱい』ダイヤモンド社)と、他者ではなく、
自分こそが一番煩わしい者であると教えてくださいます。

 私の目はありのままの世界を見ているにもかかわらず、
「自分」は勝手な解釈でもって、ものごとを常に選り好んで
生きています。

周囲の人を、親を、連れ合いを、子を、そして自分自身さえ
ありのままにいただくことなく、事実をねじ曲げ、
そのうえ不平不満を言って生きているのです。

 そのような私が、本当の私自身を見ることができる場として
聞法の道場があるのでしょう。
その確かな依り処を大切にして欲しいという仏さまの願いを、
お内仏の前に座る家族の姿をとおして、あらためて
教えていただいたことでした。

 稲城先生の法語「世の中に最も度し難いものは他人ではない この私」
この法語は、不確かな目で見たものを絶対化するどうしようもない私を
言い当てられた言葉です。
いかに我が身中心の思いで生活しているのか。
それさえも厳しく教えられないとわからない。
そういう我が身の愚かさを教えていただくのが道場です。
その自分が最も救われなければならないものであると目覚めたとき、
頭は自然と下がるのです。

                  松江 長親師を参照


          


           私も一言(伝言板)