第1439回 宗教的目覚めを求める叫び

令和2年 8月27日〜

 医科大学で 若い医学生にも仏教を教えて
おられた、真言宗の古川泰龍住職が書かれた本に
「死にたくない」や「長生きしたい」という
思いの根は同じだと書かれています。


「死にたくない」や「長生きしたい」といった
欲求は 私たちの多くが持っています。

入院した患者さんは、例外なく「死にたくない」や
「長生きしたい」といった思いが根底にあります。

「死にたくない」や「長生きしたい」といった
思いの根は、宗教的目覚めを求める叫びだと 
このご住職は述べておられます。


 普通、私たちは過去に生まれて、現在、今を生きている。
そして、未来のいつか 必ず死ぬ、と考えています。
そんな人が 大きな病気をした、高齢になった時
「死にたくない」とか、「長生きしたい」と考える
ことが多い。


その思いは、生まれてからこれまで  出会うべきものに
出会えないまま人生を終わろうとしている。

こんなはずではない。
その出会うべきものがわからない、そんな思いの
背後にあるものが、「死なない  いのちに  
出会いたい」という思いである。


すなわち 死なないいのち、「無量寿」に
出会いたいという宗教的目覚めを求めた
叫びである、と言われているのです。


 浄土真宗における 宗教的目覚めとは、
仏の世界、仏の心に触れることです。

その具体的なものが、仏の本願、
南無阿弥陀仏との 出遇いです。


「 南無阿弥陀仏 」という、出遇うべきものに
出遇えないままでは、死んでも 死にきれない
という 思いの表れが「死にたくない」や

「長生きしたい」という欲求となるのです。

 仏教の無量寿は、時間でいうと 永遠と
いうことでもあります。

寿(いのち)が無量、つまり永遠ですから、
無量寿と無量光(智慧)と合わせて、
「 南無阿弥陀仏 」ということです。


南無阿弥陀仏とは、具体的な仏の
はたらきなのです。

仏の知恵( 無量光 )に触れて、人間の
理知分別の愚かさ、狭い視点であることを
気づかせて、そういう存在に智慧あらしめたい、
いのちある存在にならしめたいという

はたらきです。

 南無阿弥陀仏によって仏の大きな
世界に触(感得)れると、自然に
「足るを知る」、「存在の満足」の
世界に生きていくように導かれます。


その結果、今日一日を精一杯生かせて
いただくことができ、老病死を仏に
おまかせするという世界を生きることが
できるのです。


 田畑正久医師 医療文化と仏教文化 
        本願寺出版社刊


          


           私も一言(伝言板)