第1569回 等しく  ~すべてのものを~

 令和5年 2月23日~

 お経には「一切衆生 悉有仏性」というお示しがあります。
これはすべてのいのちあるものは、みな仏になる可能性を
持って、生まれてきているという教えであります。

 また、阿弥陀如来様は、「十方衆生」を必ずすくうと誓い、
はたらいて下さっております。
十方というのは、東・西・南・北・北東・北西・南東・南西の
八つに、上下を加えたすべての世界です。
この十方のいのちあるものを、必ず仏にすることができなかったならば、
阿弥陀如来とは名告らないと、誓い、はたらいて下さっているのです。

 ですから、私たちは気付いていなくとも、どんな生き方をしていても、
すべて仏となるべき“いのち”を生きているのであり、願われて
生きているのです。
換言するなら、私たちは、阿弥陀如来様にすくわれるべき“いのち”を、
生きているということができるのです。

 人間に生まれさせていただいた尊さに目覚めるというのは、
このように仏となるべきいのちを生きているということへの、
目ざめ、気付きなのであります。

 大切なことは、この私の“いのち”が願われているだけではなく、
すべての“いのち”が、阿弥陀如来様にすくわれるべく、
今生きているのです。

 ややもすれば、日常の生活の中で、ともすれば“いのち”の尊さ、
如来様のはたらいて下さってある“いのち”であったということを
忘れてしまい、どんなにか“いのち”を粗末に扱っていないでしょうか。

 私が尊い“いのち”、如来様のはたらいて下さってある“いのち”を
生かされていることに気付く時、初めて、すべての“いのち”が等しく、
尊いと気付かされるのであります。

 同じ阿弥陀如来様が、はたらいて下さってある尊い“いのち”でありました。
同じ阿弥陀如来様のお浄土で遇わさせていただく“いのち”でありました

と目覚める、すべての“いのち”への共感もめばえ、
「たがいに敬い、たすけ合う」という人間関係が成立し、
南無阿弥陀仏にいかされる私の人生が展開していきます。

 南無阿弥陀仏のみ光りは、ときもところもこえ、人種や、
肌の色の違いや、家柄・・・・・・、そんなもの、何の関係もなく、
等しく“いのち”を育てて下さってあるのです。

『聞法 1996(平成8)年  著者 小林 顯英師より


          


           私も一言(伝言板)