第1348回 お念仏のこころ

平成30年11月29日〜

 赤ちゃんを抱いているお母さんの姿をみていますと、母も子も、
ほんとうにしあわせそうですね、お母さんは、抱いた子に、絶えず

語りかけながら、お乳をのませています。
赤ちゃんもお母さんの胸に抱かれて、安らかにお乳をのんでいます。

 このような愛情にはぐくまれて、人は身も心も育っていくのです。

だから、うれしいにつけ、悲しいにつけ、両親や私を育ててくれた人のこと、
中でも母の愛情をなつかしく想い出すのです。

ときには「お母さん」と、母の名を呼びながら、人生の苦難を越えて
いくこともあります。

このような愛情に はぐくまれてきたことのありがたさを、ほんとうに
知るのは、自分が親となり、親としての苦労を味かったときでしょう。
私の親も、このように苦労をして、私を育ててくれたのかと、
そのご恩のありがたさに、自然と頭が下がる思いがします。


 若いときには、自分の力で大きくなった、自分で道をきりひらいてきたと
思いがちです。

しかし年をかさねるにつれて、そうじゃなかった、両親をはじめ、多くの
人びとのおかげであったと、気づいてまいります。


 おもえば私は、ものごころもつかぬうちから、「お母さんだよ、お母さんだよ」
という、やさしい言葉の中で、育ってきました。

ですから、なにかことがあればつい、「お母さん!」と母の名を呼びます。
自分で気づくより先に、「お母さん」と思わず声にします。 

七高僧の一人、源信僧都は、仏さまをおがむときには、

「この上もなく大きなお慈悲のお母さん(極大慈悲母)」といわれたそうです。
仏さまは、私が気づくより前から、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「そなたのお母さんだよ、お母さんだよ」と声をかけ、護りつづけて
いてくださるのです。

私どもは、そうした仏さまのお育てをうけて、子供が、「お母さん」と呼ぶように、
お念仏する身にしていただきました。


 親鸞聖人も「浄土和讃」のなかに、
「子の母を おもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 
  現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」(註釈版聖典577頁)と、
お念仏のここらをうたわれています。


母の名を呼べば、母の面影が心によみがえるように、念仏する人の心は
如来さまの慈愛で満たされていきます。

では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。


                              朗読法話集 第一集より

          


           私も一言(伝言板)