第1056回 前に生まれた人は  〜後に生まれん人は〜

 平成25年 4月18日〜

こんな文章に出会いました。本願寺新報に掲載されたご法話の 後半部分です。


連続して途切れなく

世間一般では、亡き方に対して「供養」という言葉をよく使います。
これは、ご先祖のたましいをなぐさめることのように使われていますが、
仏教本来の意味ではありません。

供養とは「供(そな)え養(やしな)う」と書きます。

「供給資養(くきゅうしよう)」の意味だそうです。
仏さまに対して、お敬いのこころで、お香やお花、お灯明(とうみょう)、
飲食物などをささげることをいいます。

つまり、亡き方がなぐさめてほしい、物を供えてほしいと願われているのではなく、
残された私たちが仏さまを敬い、仏さまとなられた亡き方を偲んで、
こころからお供えさせていただくのが「供養」なのです。

しかも、「供えている」側であるはずのこの私が、実はお供えすることを
通して、仏さまをお敬いするこころを「養われ」ているのです。

この私が、亡くなられた方をなぐさめるのではなく、亡き方の生前のご恩、
これからのお導きに対して感謝し、お敬いのこころで供養させていただくのです。

それだけではありません。ご本尊に礼拝(らいはい)し、み教えが説かれた
聖典を拝読し、仏さまとなられた亡き方を偲び
「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」とお敬いのこころでお讃(たた)えすることも、
大切な「供養」なのです。

親鸞聖人は、主著である『教行信証』の一番最後のところに、
「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは
前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは
休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。

無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなり」
とお示しになりました。

前に生まれたものは、後のものをお念仏の道へと導き、
後から生まれたものは、前に生まれた方にみ教えを尋ねていき、
連続して途切れないようにしましょう。なぜならば、数限りない
迷いの人々が一人残らず救われるためです、と親鸞聖人はおっしゃっています。

美しい緑の木々を眺めるたび、聖人のお言葉が心にしみる今日この頃です。

   前(さき)に生まれた人 本願寺新報 2012(平成24)年61日号掲載
    段證 武邦(だんしょう たけくに)(富山・常尊寺衆徒) より一部掲載。

 

         


           私も一言(伝言板)