第1425回 怠け者

 令和2年 5月21日〜

平野修先生の本に こんなところがありました。

 ある年の正月に 兄弟達が「どこそこに
遊びに行こう」と、

私を誘ってくれましたが、その時私は「行かん」
「行っても面白くないもん」と、言ったんです。


それを父親が聞いて
「あんたは行かない先から、どうして行った
結果まで分かるの?」と言うのです。 
そして、そのあとに付け加えて

「お前は、百人居て九十九人の愚かな人に
 誉められるのを非常に喜んで、

  一人の本当に智慧ある者の言うことを
 喜ばないだろう」と、言われ、
何のことか分かりませんでした。


当時は十歳余りですから、それから
四十年近くの年月がかかって 最近、
やっと「ああ、そういうことだったのか」
と思います。

「ああ、やはり親だな。私の全身を
 見抜いておったんだな」と思うんです。


一つは、経験しないことを先立って
考えて「行っても面白くない」と、

行かないうちから言う。こういうのは
怠け者なんです。


怠け者は「それは分かっている」と
言います。
それは厚かましいことであり、
た怠け心を表しているかと思います。
こういうことを「懈怠(けたい)」と
いう字が伝えられています。

これは、本当は解っていないのに
解っているとするのを懈怠と
言うんです。


『教行信証』では「懈怠」という言葉を
ある経典から引いて用いられています。

これは解らないのに解ったとして
いますから、もうそれ以上解ろうと
しません。


つまり怠けるわけです。
我々の精神が陥りやすいところで、
分かったとしてもうそれ以上分かろうと
しませんから。それも経験しない
うちから分かったことにして
いるんですから。


「そんなもん、やったって同じや」と、
「無駄だからやめておけ」と、
本質的に怠け者なんです。
我々の本質は、どうも怠け者と
言っていいかと思います。

 もう一つの「九十九人の愚か者に
誉められるのを喜んで、一人の
賢い者の言うことが聞けない」という、
これが分からなかった。


その「一人の賢い者」というのは誰か。
最近、やっと「そういうことか」と、
こう思えるようになりました。
仏の教えなんですね。
仏のことを指して「一人の賢者」と
父親は言ったんです。


九十九人の愚か者というのは、
この世全体を表したんです。
お前はこの世の流れ、この世の
流れというと、「愛欲・名利」
というものが、この世の姿です。

結局そんなものに振り回されて、
そして、それ以上のことは耳にしない。
「お前は愚かにして、仏の法など
耳にできるような者でない」と
うことを言ってくれていたのです。
親だったから、私の本質を見抜いて
いたのでしょうね。

 平野修著 親鸞からのメッセージ
   @より 法蔵館刊

          


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