第1617回 梅は こぼれる 菊は 舞う

 令和6年 1月25日~

 早いもので 境内の紅梅、白梅ともに 開きはじめました。
日本語には 豊かな表現があり、梅の花は 丸く咲き ちょうど
涙のように見えるので 花が散ることを 涙がこぼれるようだと
梅の花は こぼれると言うのだそうです。

昔から〝桜散る こぼるる梅に 椿落つ 牡丹崩れて 舞うは菊なり“と
この他 朝顔は しぼむともいいます。
「しぼむ」、「落ちる」「くずれる」等、花びらの変化を表した
味わい深い表現です。

 では どうでしょうか、私たち人間の最後は……? と聞かれると 
私たちはついつい「死ぬ」と答えてしまいます。
また「人間死んだら終わり」ということも耳にします。
しかし、いのちの終え方は「死」や「終わり」だけではなく、
違った言葉があるものです。それは 「往く」という表現です。

 花の終わりも、言葉で雰囲気が違って聞こえるものですが、
私たちの終わりも、表現することばで、大きく違ってくるものです。
「往く」の元になっている言葉は、「往生」です。

 私たちのお仏壇のご本尊、阿弥陀如来が、私たちの為に開かれた
救いの世界、お浄土に往き生まれることを「往生」と言います。
人間がいのち終えることを、「終わりだ」「死だ」と表現するのは
私たちの見方。

一方で、阿弥陀さまは「仏としてのいのちの始まりだ」
「生まれるんだ」と、私たちに呼びかけておられるのです。


  阿弥陀さまは、死で終わりではないよ、自分の国、
お浄土に往生させ、仏さまのいのちへと実を結ばせたいと

願いを発して、はたらき続けてくださっています。

  私たちは、美しく咲く花だけしか見ていませんが、花は 咲きほこり 
やがて枯れて、散ることで、実を結ぶことが出来るのです。

その果実が、次のいのちを生かしてゆく、重要なはたらきをするのです。

 仏さまへと実を結ぶと、今度は 慈しみをもって多くのいのちを包み、
育み、導いていくはたらきが出来るのです。
先立って仏さまと成られた方々の ご苦労で はたらきによって、
お念仏に 南無阿弥陀仏に 出会えたのが、この私なのです。

そう考えると、人間に生まれて、今 花をさかせていますが 
南無阿弥陀仏のお念仏で、やがてお浄土に往生して、仏に成る、
そして人間の時よりも、もっと大きな 重要な はたらきができる世界に
生まれるのです。


今、まだ助走中で これからが 本番、大事なはたらきが、
本来のはたらきができる日も近いのです。


          


           私も一言(伝言板)